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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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庭先キャンドル祭りin野田沢



 多くの人の感動と共感を呼びおこした、「ロウソクの灯りに浮かび上がる野田沢集落」、このワンショットはどこから撮影されたのか。その種明かしは次の頁です。


 祭りを企画した笹岡俊英さんが「野田沢マウンテン」と命名した雪の山、それはじつは集落の道路除雪で出た雪が積み上げられた山。この日は、頂上までスロープが付けられ、ロウソクも灯されて綺麗にお化粧。頂上ではかがり火も焚かれ、若者や子どもだけでなく、高齢の人たちも登られました。


  
 マウンテン頂上からお宮方向を眺めた1枚もご覧ください。
 
 
 
 頂上まで登ってきた人たちの姿も写せていたらよかったのですが、全景写真を撮るので精一杯。上りはスムーズに行けたのですが、下りはおっかない。子どもたちが走って下りるのをよけて、ソロリソロリと下りました。
 
  
 点灯には集落の人たちをはじめ、多くの人が参加されました。

  
奥に見える青い屋根は宮川頼之さんのキノコ舎


程久保の入り口付近

          左手に見える建物は程久保の観音様
                                     

 宮川吉郎さん・裕子さんご夫妻の雪ダルマ。よりクローズアップしたものをご覧ください。その下は灯りが点った集落の中を仲良く歩かれるご夫妻です。





  「吉郎さん、ダルマの帽子は日頃被られているものですか?」
  「いや、よそ行きのものですよ」

  
灯篭の中にツララが二本  


「私、雪ダルマ、描いたよ」と、山本ことのちゃん

  
ことのちゃんの雪ダルマ
    
                  
                                
 
企画者・笹岡さんの家の前に開設された雪上バー



 

ロウソクの灯りに野田沢集落が浮かび上がりました



 2月28日夕、野田沢〜程久保全域の雪の壁にロウソクの火が灯されました。
 「庭先キャンドル祭りin野田沢」です。企画されたのは笹岡俊英さん。そして集落のみなさんがロウソク点灯に参加され、口々に「きれいだね」と感嘆。下の雪ダルマは宮川吉郎・裕子ご夫妻の制作です。



 楽しいです。そして、元気が出てきますね。


雪に囲まれた暮らし

 今冬、「除雪する人たち」を1つのテーマにすえて、「復興への歩み」配達の合間にカメラをむけてきた。「復興への歩み」や「配達日誌」に未掲載のもので素敵な写真がまだまだたくさんある。時間を探して整理したいと思っている。
 その一方で、ここ数日、人びとがどれほどの大量の雪に囲まれた中で暮らしているのかを写真で示したいと思って、意識的に撮影している。もちろん、ここ数日以前にもそういう写真は撮っているのだが、相当時間をかけてデータを整理しなければならない。

“雪の山に上って雪掘り”、あるいは“冬は誰も近づかないところへ〈かんじき〉を履いて水のかけ口へ行く”ということも必要


 温泉宿泊施設「トマトの国」へむかう村道の脇の雪の壁。
 写真中央に雪を踏み、人が上った形跡が見える。この雪の壁がどれほどの高さなのか。もう1枚をご覧いただこう。



 雪の壁は人の背丈よりもはるかに高く、さらに軽トラの車高よりも高い。オレンジのヘルメットを被った人は森集落・中条地区のお宮、白山神社の屋根の雪下ろしを終えて、路上へ“帰還”しようとしているところ。1枚目の写真の上方から撮影したものだ。

 大変なのは、この上り口だけではない。この上り口から、雪がなくてもかなり急峻な参道を上がらなければならないが、その途中の鳥居は完全に雪に埋もれている。
 雪を少し、掘ると、鳥居の上部だけ姿を見せた。



 お宮は小高い山の上。お宮正面にむかって左手は、すぐ下を中条川が流れる急峻な崖。お宮の屋根から下した雪をスノーダンプに載せて運び、その崖下に落とす。





 不用意に落とすと、雪の塊とスノーダンプが密着し、スノーダンプごと下に落ちようとすることがある。このとき、スノーダンプを手から放さないと、人も一緒に崖下へということになってしまう。屋根からの雪下ろし時の転落事故の主原因の1つがこれだ。

 崖の下を覗いてみた。

 
写真の左に雪の「割れ目」が見えるが、これが中条川。
 
 
 次は、平滝集落の高台から千曲川を挟んで向かい側を望んでみた。

 
 写真左手に山を上っていく道路が見える。箕作集落から泉平集落に通じる山道である。元々は林道として開削されたもの。現在は県道となり、春〜秋は志賀高原に通じるドライブコースともなる。泉平までは道路除雪がされ、泉平の人びとにとって生命線となっている道路だ。
 写真右方にも小高い山が見えるが、この左右2つの山の間の沢(写真中央)に小箕作(こみつくり)川が流れる。ここに冬の間は雪消しの生活用水、春からは田んぼに入れる水を確保する水路のかけ口がある。写真右手の山の裾で隠れているあたりだ。

 箕作の人たちは、大量の雪が積もり、“たね”に水を入れて雪消しをしたいが、「水が来ない」という声が上がる。
 すると、用水番の人は“かけ口”まで行かなければならない。
 上の写真だけを見ると、“かけ口”への接近は容易に思えるかもしれないが、これが命懸けの作業。



 上の写真は泉平にむかう道路と小箕作川にむかう道との分岐点を撮影したもの。小箕作川にむかう道はまったく見えない。おそらく写真に見える電柱・電線の下あたりだろう。ここを“かんじき”を履いて進んでいくのだ。むらの人だって、用水番以外の人は近づかない。
 雪のない街で暮らす人には想像もできない世界だ。しかし、それが豪雪の雪国の日々の暮らしなのである。

雪の階段を下りると、そこが玄関だった

 このタイトル、30年ほど前の栄村ならば、どこの家もそういう状況だった。JRの森宮野原駅前の商店街だって、道路上にうず高く雪が積もり、それは2mを超える。そこから雪の階段をつくって、自分の家の玄関に通じるようにしたものだと聞く。記録写真も残っているようだ。
 そういう風景は栄村でもさすがにあまり見られなくなった。道路の機械除雪が進んだからだ。
 でも、機械除雪が行われる村道などから家の玄関までの距離が長い場合、その除雪はその家の住人の仕事。「道踏み」とか「道つけ」という。
 これも最近ではハンドロータリー(スノーロータリーの一種で、人間が歩行しながら操作する)を使う人が増えて、かなり道幅が広い「道つけ」がされるようになったが、ハンドロータリーがない場合は(ハンドロータリーは「1馬力10万円」と言われ、1台150万〜300万円する。燃料代も必要だし、ちょっと故障すると修理代で10万円、20万円が飛んでしまう)、“かんじき”で道踏みする、スノーダンプとスコップで除雪するという作業になる。
 ある家のケースを撮影した。





 1枚目が村道からその家に向かう道の入り口。雪のない時は田んぼ(畑)の畦道のようなところ。2枚目は入り口を上った先の道の様子。この雪道を進み、左に折れると、



 玄関入り口は撮らなかったが、当然、この雪道よりも低い。階段状にしたところを下りることになる。
 雪の上を歩いて家の横手を見ると、住人のボブさんがプロパンガスのボンベ周辺の雪を掘っていた。



2階の窓さえ閉ざす屋根からの落下雪を取り除く
 こんな写真レポートを作成していたら、大家さんが私の住家の周りの雪飛ばしをするエンジン音が聞こえてきた。
 住家(うち半分は大家さんの作業所)の裏手の雪飛ばしがひと段落したところで、私が尋ねた。
   「英男さん、表の2階の窓のところ、何回か、雪を落としていただ
    いたんですが、あれはあの雪のところに上って行って、落とすん
    ですか?」
   「そうだよ」
   「じゃあ、一度やってみます」
 こういう次第で、2階の窓まで達する落雪の山を上ることになった。

 まず、除雪を始める前の様子を紹介しておこう。



 雪の山の突端の右にわずかに青いものが見える。2階の窓に雪が吹き込まないようにする防雪ネットだ。
 部屋の中から見ると、雪しか見えず、本来ならば見える国道117はまったく見えない。
 その国道117の高さから見上げた様子がつぎの1枚。


 
 1枚目写真の右下からスコップで雪を横に飛ばしつつ、頂点まで上がっていく。その様子を撮影できたら最高だが、そんな余裕はない。
 頂点まで上がりきると、部屋のベランダ・防雪ネットに沿って、山の狭い尾根のようなかんじのところを進みながら、雪を落としていく。
 私の後ろから英男さんがスノーダンプを持ってやって来て、さらに雪をどんどん落としていく。
 その結果が次の1枚。



 青色の防雪ネット全体が見えるようになった。
 
 英男さんは平然と立っておられるが、これ、かなりおっかない場所。
 英男さんも作業を終えて下に下りられた後、カメラを持って青色の防雪ネットのところまで再び行った。下を覗くと、どんな感じなのか。


 
 カメラを真下に向けて撮ったもの。高さの感覚はあまりつかめないかもしれない。カメラを横に振って、国道117との関係が見えるようにすると、…。



 滑り落ちたら、えらいことになる。
 一人ではなかなかやる気にならない。英男さんという指導監督者がいればこそ出来た作業である。
 

 この写真レポート、もっとたくさんの事例を紹介したいと思っていたが、自分の住家の除雪作業の様子を急遽載せたりしたので、もう紙幅がない。最後に、昨9日、長瀬で撮った素敵な写真を紹介しておきたい。大型の重機で家の周りをきれいに除雪されたお家でその横手から撮影したもの。川は志久見川。滅多に見られない景色である。凄腕の除雪のおかげである。「雪に囲まれた暮らし」はさらに続編をつくりたいと思っている。



 

白山さまの雪掘り




 森集落の中条地区のお宮・白山神社(通称「白山さま」)の本殿屋根の雪下ろしが18日朝8時半から行われました。
 写真1枚目は9:02撮影、2枚目は8:33撮影。
 
 
「トマトの国」に通じる村道から白山さまに上がって行った上り口(8:25撮影)。

 次は私が上って行ったときで、目の前に鳥居が、そして奥にお宮の屋根が見える(8:29撮影)。


 先にお宮に上がって雪掘りを始めている月岡英男さんの姿が見えた
(1枚目:8:29、2枚目:8:31)。



 
 中条川が雪に覆われ、まるで小川のように見える。

 
  
 屋根の上に見える黄色の作業着姿は木村文二さん。右手前は斉藤松太郎さん(8:31撮影)。
 
 
 雪に埋もれていた白山さまには今日が初詣。「二礼二拍一礼」でお参りする桑原友春さん(左は木村文二さん、9:12撮影)。
 
  
 作業を終え、スノーダンプを肩に雪の中を村道へ下る(9:14撮影)。
 みなさん、この後は自分の家の屋根の雪下ろしなどをする予定。
 



  
 作業途中に記念撮影。左から斉藤松太郎さん、桑原友春さん、月岡英男さん、木村文二さん、斉藤和真さん。
 松太郎さんが昨年8月のお祭り以降から今年のお祭りまでの間のお宮管理の責任者で、白山さまの積雪状況を視察し、今日の雪掘り日程を設定された。
 「これで今冬は大丈夫だろう」というのがみなさんの認識ですが、さらに大雪が繰り返されると「もう一回」ということになります。
 (了)

栄村復興への歩みNo.242



中条のみんな、元気でーす!

 11日の道祖神の記念撮影。
 この日は村内ほとんどの集落で道祖神祭りが行われたようですが、中条地区では10時半に火入れ。
 会場は昨年紹介したのと同じ場所ですが、今年は積雪が多く、お隣の家の2階に相当する高さ。



 火は「天まで届け」とばかりに燃え上がり、お神酒もお餅も最高に美味しくいただきました。
 中条は土石流災害に負けず、今年も頑張ります。



配達途中の2枚の写真



 道祖神が終わり、家に帰る途中の保坂幸子さんとお孫さんたち。11日午後2時半頃、泉平の路上で偶然出会って撮ったものです。この直前は5人がひとかたまりで歩いておられたのですが、その場面にはカメラが間に合いませんでした。残念。

 下写真は堀切(原向集落)の藤木幸子さん宅の玄関。



 10日午前10時すぎです。玄関出入口の上に屋根の雪がぶらさがってきています。「やばいな」と思い、声をかけることにしました。「この雪、落としましょうか?」、「やって下さるとありがたいですが」。先の部分に金属がついたプラスティック製の除雪シャベルをお借りし、自分の上に雪が落ちてこないように注意しながら、2回、3回と落としました。3回目か4回目でこの雪の塊の大部分がドスンと落ちてきました。落ちた雪を砕いて少し片付け、また配達へ。幸子さんは「ちょっと待って」、「私が作った料理を持っていって」と冷凍した煮物などを持たせてくださいました。「困るのは玄関を雪で塞(ふさ)がれること」と12月中旬にお聞きしていたので、ちょっとお手伝いした次第です。

<後記>
 雪や村外に出かける用事などで1月1日号の配達に日数がかかってしまいました。配達が遅くなった地区の方々、ご免なさい。
 まだ雪が続きそうなうえに、いくつか他の仕事も入りますので、次号発行は24〜25日頃、さらに2月は2回発行になりそうです。ご理解のほど、お願い申し上げます。




 

いろんな人に支えられている村の冬の暮らし

  「東京ナンバーの車が停まっていますが、東京からお越し
   ですか?」
  「はい。毎年、テレビニュースなどで雪の状況を見ながら、
   来ています。今年は雪が早くて、ちょっと間に合いません
   でしたが…」

 19日の夕4時前に極野の故・藤木孝蔵さん宅の屋根の上で除雪されていた男性(下写真)との会話です。



 近所の方に伺うと、男性は孝蔵さんのご長女さんのご主人だそうです。
 当部集落では18日にこんな会話をしました。
  「これだけ雪が積もると、娘さんは来られないですか?」
  「ええ、車を置くところがなくなるのでねえ」
  「お正月はどう過ごされるのですか」
  「息子が二人来ます。一人は10日間くらい泊って、このあ
   たりの雪を全部片付けてくれるんですよ」

 さらに、20日の野田沢では、
  「おかあさん、息子さんは?」
  「今日の昼に来てくれるよ」
  「よかったね」
という会話もありました。

 先に紹介した徳野貞雄さんはT型集落点検で「世帯構成」ではなく「家族構成」を重視されます。つまり、いま現在、集落にある家に現に住んでいる人だけでなく、その人の他出している子どもを含めた家族をきちんと調べるのです。すると、「週に複数回、子どもが来てくれる」(お子さんは車で30分くらいのところに居住)、「月に1〜2度来るよ」(車で2時間程度のところに居住)という事例がいっぱい出てきます。
 徳野さんの本のタイトルにある「家族の底力」が発揮されているわけですね。



実家の屋根の除雪に来られた娘さん(20日、程久保)

雪害対策救助員の大きな力
 栄村独自の制度・雪害対策救助員の力も冬の栄村での暮らしにとって大きいですね。
 右は19日夕に極野の藤木高利さん宅で撮影したもの。雪害対策救助員の東部班の人たちが屋根の雪が地上の雪とつながってしまったところで、「こうつき」やスノーダンプを使って除雪されているところです。
 非常に心強い存在です。今年は、震災後に栄村に移住された笹岡英俊さん(野田沢)が新たに救助員に入られ、北信班で大活躍されています(下写真)。



 こういう冬の村の暮らしを支えてくれる人たちの存在を、以前に紹介した田んぼを援(たす)けてくれる人たちとともにクローズアップしていくことが大事だと思います。

 

坪野の秋普請

 11月30日、坪野集落の秋の水路普請が行われました。
 「落ち葉が完全に落ちてから普請する」という考えで、30日が選ばれました。

多数の支援者が参加
 坪野の現在の世帯数は7軒。うち、男性で普請に参加できたのは4人のみ。高齢化で腰を痛めて普請作業ができないケースなどがあるからです。
 坪野の水路はじつに長大で、とても4人で出来るものではありません。つぎの写真をご覧ください。



 上写真は東(あずま)圭吾さん(左)と斎藤藤男(ふじお)さん。東さんは信濃毎日新聞記者で、現在は松本勤務ですが、坪野の普請には毎回駆けつけておられます。藤男さんは震災後、松本に引っ越されましたが、毎週のように農作業に通って来られ、普請にも必ず参加されています。

 他方、下の写真はボランティアで駆けつけてくださった池田工業高校(県内池田町)の生徒さん10名と先生3名が軽トラに分乗して、上堰の普請に出発する模様です。


 
上堰のかけ口は山の上の田んぼの端から歩いて30分の山の中
 坪野から野口に通じる山道を上がっていくと、さらに山の上にあがる道があります。そこを進むと田んぼや畑が広がり、野沢街道が走っています。野沢街道を軽トラで進むと野沢温泉村にぬける道と上堰の水路沿いの道との分岐点に着きます。



 ここからは歩きでしか前へ進めません。山の中を歩くこと30分、ようやくかけ口に到着します。
 水路は下の写真のように山の斜面に開削されたもので、ほとんどが土水路。作業道は水路沿いに人ひとりが通るのがやっとというものです。



坪野下堰(古堰)と上堰
 坪野には下堰(しもせぎ)と上堰(うわせぎ)という2本の水路があります。下堰は『栄村史』に「坪野古堰」の名で出てきます。1674年に飯山藩主の資金でつくられました。この坪野古堰の開削で志久見の内池などの田んぼに水が届き、耕作が可能になったといいます。
 一方、上堰は古堰の開削後、坪野の集落が自力で開いた水路で、その普請に要した費用の記録が残っていて、『村史』に収録されています。開削年度は判明していませんが、1600〜1700年代のことです。
 下堰には天代川から水が取られていますが、それだけでは不十分で、上堰の水が坪野のお宮の辺(あた)りで下堰に落とされています。

坪野の水路普請を支える態勢づくりを
 今回の秋普請は、池田工業高校からの13名ものボランティア支援があったことが大きな支えになりました。これだけの人数が揃うと、長大な水路も約2時間の作業で落ち葉の掻(か)き出しができます。
 池田工業高校のボランティアの申し出は村社協に対してあり、復興支援員の石坂さんが仲介にあたって下さって、30日の普請となりました。
 しかし、今後、毎回毎回、遠く池田町の人たちだけに頼るわけにもいきません(池田工業高校のある池田町は白馬村に近く、生徒の中には親戚が被災したという人もいます)。
 今後、坪野になんらかの縁がある村の人(家のルーツが坪野にあるケースなど)が坪野の普請を応援するなどの態勢をつくっていくというような必要があると思います。
 水路普請に困難が生じているのは坪野だけに限りませんが、昔は自立的にすべてのことを賄(まかな)えた「むら」という単位(=現在の集落)が小規模化、高齢化していますので、栄村全体で各集落の水路(普請)の現状を見渡し、「栄村水路維持計画」のようなものを立案して対処していくことが必要になっているのだと思います。


普請の後の昼食の様子(坪野公民館)


普請に出た坪野の人たち
 

栄村復興への歩みNo.235

 野々海水路を大事に守り、むらをこよなく愛する人たち


 
 標高約880mの地点で水路の落ち葉を上げる白鳥の人たち。白鳥に下る野々海水路の3号線です。
 2日は野々海水利組合の普請の日でした。森、青倉、横倉、平滝、白鳥の人たちが山に上りましたが、白鳥の人たちが上がったのは橋場川沿いの道。標高600mあたりまで上がると「中谷地(なかやち)」と呼ばれる、かつての田んぼゾーンに行き着きますが、そこから先は最近まで道路がありませんでした。水路沿いに山を上って普請をしていたのです。「みんな歳をとってきて大変」。そこで、「水路管理用道路を拓こう」という話が出たそうです。2007(平成19)年のことで、小林幸宏さん(白鳥生まれの役場職員)が計画書を作成されたそうです。
 重機をリースし、仲間が操作して山を切り拓いていったのです。今年、完成しました。その道路が上の写真の落ち葉に埋まった道です。経費は「農地・水管理・環境保全」制度のお金で賄われましたが、たとえば本年度の総額は67万円という限られたものです。
 普請の現場では白鳥の「農地・水・環境」の代表、月岡利郎さん(黄色のタオルを首にまいている人)にいろいろと説明をしていただきました。「白鳥はこの水しかない。橋場川は夏には枯れてしまうので、この野々海水路の水を入れるんだ」。
 さらに10日には月岡富士男さんをお訪ねし、さらに詳しいお話を聞かせていただくとともに、自ら書かれた概略地図を写真に撮らせていただきました。下図がそれで、「中谷地」から「上の山分水」にかけて私が赤く塗った部分が、水路管理道路が新たに切り拓かれたところです。


 
 大変な事業です。集落の力だけで造ったというのは驚きです。
 さらに驚いたことがあります。上に掲載した写真などを示して、「この方のどなたですか?」と富士男さんにお尋ねしたところ、「この人は平素は更埴(現・千曲市)で仕事しているんだけど、普請の時は白鳥に帰って来てくれるんです」と言われるのです。長野市から普請に帰って来られる人もいます。
 野々海の水路を大事に守り、白鳥のむらをこよなく愛する人たちがたくさんおられるのです。

 この水路管理道路には絶景が広がります。ブナ林です。2日はすでに落葉していましたが、それがまた素晴らしい。紙幅の関係であまい大きな写真を掲載できませんが、ご覧ください(管理道路のいちばん上の地点です)。


来年度、野々海池の第一隧道の改修実施

 ところで、富士男さんのお父さんとお兄さんは野々海水路開削のとき、野々海池のすぐ下の第一隧道を手掘りされた方だそうです。
 昨年11月、富士男さんや月岡英男さん(中条)らが一号隧道の点検に入られました。入り口側から120m、出口側から150mは入れたが、その間は水が溜まっていて人は入れない状況だったとのこと。役場にこの箇所の改修を申し入れていましたが、9月村議会で産業建設課長が「来年度に中山間整備事業による改修を予定している」と明言されました。
 
標高700m近くの山の上の田んぼ
 さらに富士男さんから山の上の田んぼのお話をお聞きしました。先に示した図で「上の山」と書かれているところ、そこで2町4反(20数枚)もの田んぼをやっておられるというのです。この夏、平滝と白鳥を結ぶ山道を走ったとき、途中で山をさらに上がっていく道があったのですが、その道を上った先にあるというのです。富士男さん宅を辞去した後、そこに向かいました。写真をご覧ください。


 
 いちばん上の田んぼから撮ったものですが、写真左上に見える集落は泉平です。
 この写真を撮影した地点から上は車が通れる道はありません。ここから先に示した図に「上の山分水」と記されている地点まで歩いて約1時間かかるそうですが、富士男さんはそこを歩いて水路管理にあたられるそうです。
 
 こういう白鳥の人たちの野々海水路、田んぼを守る姿の中に栄村の復興への底力を見ることができると強く思いました。

「さかえ田植唄」の踊り―白鳥の「スワンの会」



 上写真は、白鳥の「スワンの会」の人たちが「さかえ田植唄」にあわせた踊りをお稽古(けいこ)されている様子です。18日午後、白鳥公民館での撮影です。
 「スワンの会」の女衆は19日の栄村文化祭に出場されましたので、その時に撮影できればよかったのですが、スケジュールの都合がつかず、稽古風景を撮影させていただきました。
 「さかえ田植唄」というのは、震災の際に白鳥出身の民謡歌手・月岡翁(おう)笙(しょう)さんが栄村支援のために作曲して下さったものだそうです。「ご支援への感謝の気持ちを忘れてはいけない」という思いから、今回、「スワンの会」の人たちが曲に合わせて踊ることにされました。振付は風張好章さんという方によるもので、「さかえ田植唄」のCDに振付解説が付いています。
 上の写真は、ちょうど田植えの仕草の場面だと思います。
 踊りは、絣(かすり)の野良着に赤の前掛けをする昔の田植え姿を見に着けての女踊りと、頬(ほお)かむり姿の男踊り(左写真)とがあり、みなさんは両方を踊られました。



 「小唄」は昔の田植えの様子を彷彿(ほうふつ)とさせ、「スワンの会」のお一人は、「昔は白鳥のいちばん大きな田んぼには、この格好をして24人もが入って田植えしたもんさ」と話しておられました。
 こういう震災時のご支援への感謝の気持ちを込めた取り組みは栄村の復興にとって大事なことだと思います。
 また、白鳥集落では集落を盛り立てるさまざまな取り組みが行なわれていて、その中でこういう踊りも実現したのだと思います。水路管理の道路の新設なども行われているようで、白鳥の方々のご協力をいただきながら、取材しお伝えしていきたいと思っています。