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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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震災10周年にむけて、この1年をどう歩むか

 

 震災9周年の3月12日夕、森宮野原駅前で点火された「3・12栄村」の灯です。今年は新型コロナウィルス感染防止のため、灯明祭は中止され、灯りの点灯のみが行われました。小雪の中、コツコツと準備して下さった相澤さん、有難うございました。

 

● 「震災10周年」をめぐる議会でのやりとりから
 3月3日〜10日の栄村議会3月定例会に提案された「令和2年度栄村一般会計予算」の中に、「栄村震災復興の集い」200万円という項目がありました。予算説明資料には「講演会、子ども達の発表、復興列車の運行等を予定。ご支援いただいた方などへ、感謝のメッセージを発信」とあります。200万円の内訳には「報償費60万円」とあります。随分と高い講演料を要する人でも呼ぶのでしょうか。
 《震災10周年にあたって、栄村はどういうメッセージを出すのか》、このことがまったく議論されていませんので、私は「一体、どういうことを考えているのか」と質問しました。答弁は「庁内検討会議を立ち上げた」というものでした。庁内会議での検討も結構ですが、震災から10年、「どういう復興を実現できたのか、実現できていないのか」を村民全員参加で議論し、検証することが必要だと思います。

 

● テレビ番組を見た感想
 東日本大震災(地震・津波・原発事故)から9年、コロナのニュースに押されたといえども、今年もテレビ・新聞では数多くの特集がありました。
 違和感を覚えるもの、共感するもの、「大事なことだなあ」と思うもの、さまざまでした。
 違和感を覚えたのは「風化させないために」というセリフでした。震災の語り部を始めた人を紹介する企画などでアナウンサーが多発した言葉でしたが、番組で語り部から語られた言葉は、あの悲惨な災害を自身がどう受け止め、心の整理をしていくかをめぐるものでした。その心の深層の苦闘を受け止めているとは到底思えませんでした。「〇周年」の時だけニュースに取り上げることが震災報道であるかのように取り扱っているメディアのあり方こそを反省することが求められているのではないかと思います。
 「大事なことだなあ」と思ったのは、役場職員40名が命を失った岩手県大槌(おおつち)町役場の震災検証の取り組みを追いかけた3月8日夜のNHKスペシャルです。地震発生から大槌町役場が津波に襲われるまで35分の時間がありました。しかし、役場では職員の避難行動が行われなかったのです。「なぜ、夫は命を失わなければならなかったのか」という遺族の問いかけに対して、町役場は長い間、答えることができませんでした。
 検証作業が始まったのは約1年前。番組の内容をここで詳しく紹介することはできませんが、震災当時の防災担当職員で現在は町長を務める平野公三(こうぞう)氏は講演の中で、「役場は住民の避難に責任を有するが、同時に職員自身の命を守るための行動を予め計画しておかなければならない」という趣旨の話をされていました。当たり前のことのように思われるかもしれませんが、その点を明確にしていなかったからこそ、40名もの役場職員の命が失われたのです。非常に重要な問題です。
 こうした問題が明らかになったのは、震災(津波)から8年の歳月を経て、検証作業がおこなわれたからです。
 栄村でも震災時、消防団が大活躍してくれましたが、では、消防団の活動がしっかりと記録・検証され、村(役場)の今後の防災対策に活かされているかと問うと、まったく不充分だと言わざるをえないのではないでしょうか。昨秋の台風19号の千曲川氾濫への対応を振り返ると、「消防団任せ」の色合いが濃厚で、村(役場)の対応には問題が残っているように思います。そういう視点も持ちながら、9年前の震災対応について改めて検証・教訓化が求められていると思います。

 

台風19号時に第一線で活躍する消防団の姿

 

● 震災復興計画を基に復興の検証を
 来年の10周年にあたって、「栄村の復興はどこまで進んだか」をどう報告するか。ただ漠然とムード的な議論をしても意味がありません。やはり震災から2年目に策定された栄村震災復興計画を基準として、何が進み、何が進んでいないのかを明確にしていくことが最も妥当な方法だと思います。私は議会で問題提起していきたいと思います。また、みなさんから様々なご意見や思いを聞かせていただき、いろんな問題を浮き彫りにしていきたいと思います。みなさん、是非、ご意見をお寄せください。


栄小の「総合的学習ブック ふるさと栄」に注目!

 

 上写真は、栄小学校で制作・発行された総合学習のためのテキスト(教本)『ふるさと栄』の表紙です。
 栄村の素晴らしい宝を子どもたちと共に学ぶのに最適のテキストになっています。制作にご努力くださった下育郎校長先生をはじめとする栄小学校の先生方に感謝申し上げます。
 


松尾まことの議員活動報告No.39(3月11日付)

森川村政は大失敗
〜3月定例議会であきらかになったこと〜

 

 議会3月定例会は令和2年度一般会計予算などの議案を審議し、3月10日に閉会しました。この議会を通じて浮き彫りになったのは、森川浩市氏の村政4年間が大失敗だったことです。今号では3月定例会の焦点となった4つの問題に絞って報告と解説を行います。

 まず、予算の採決に先立つ《討論》での私の発言の全文を紹介します。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 令和2年度一般会計予算案の採決にあたり、賛成する立場の意見を表明します。
 これは、予算案を審議しながら、ここ数日間、考えに考え抜いて行なった苦渋の判断です。
 本予算案の審議を通じて明らかになったように、栄村の財政状況は、令和3年度においては恒久的諸政策の財源確保の見通しが立てられないという危機的な状況にあります。
 この危機の原因は何でしょうか。ここ数年、震災復興等関連予算により最大時、通常財政の2倍以上に膨らんだ村財政を平時の財政規模に戻すことが必要になっている中で、平時財政にソフトランディングさせることに失敗したことが原因です。
 そして、それは森川村長が、十分な財政検証をすることなく、放漫財政を続けたからこそ生じた事態です。

 

 森川村長は今議会で、財政が厳しい状況であることは認めました。定例会冒頭の施政方針も、財政状況を反映して抑制的な基調でした。
 しかし、事もあろうに予算審議議会開催中の8日あたりから、「森川こういちのお約束」というタイトルのチラシを村の各世帯に撒き始めました。このチラシは公職選挙法に抵触している可能性が限りなく大であるものです。このチラシで、本定例会での質疑内容に反することが書かれています。一例を挙げます。「農業経営について」の項で、「近年農業形態が、集落営農型および法人営農型に代わりつつあるため、農機具への助成制度を新設し、省力化を推進いたします。」
 森川村長。集落営農への農業機械導入を助成する制度は、平成31年度予算で、多くの集落の要望を背景に私共議員が求めたにもかかわらず、あなたが「資金がない」ことを理由として、打ち切った施策ではありませんか。そして、これから採決する令和2年度予算では、従来からの農家支援策も満足にはできないことが明らかになっているではありませんか。
 議会での審議内容、村長自身の答弁内容に反する、こんな無責任な「公約」を宣伝するというのは、いったい、どういうことなのでしょう。このチラシはただちに撤回していただきたい。
 あなたに令和2年度予算の執行を委ねることはできません。
 これから採決される令和2年度一般会計予算は、森川村長のための予算ではありません。栄村村民のための予算です。
 村長選挙を1ヶ月半後に控え、本来ならば、暫定予算、いわゆる骨格予算にとどめるべきでした。しかし、今から暫定予算に組み替えるのは時間的にも厳しいと考えます。よって、本予算案を村民のための予算として成立させたいと思います。
 審議を通じて、いくつかの費目・政策については、執行の留保、見直しを求めています。担当の課長のみなさんにはその点をしっかりとお守りいただけるようにお願いします。

 また、需用費等の執行において、財政状況に鑑みて、最大限の経費節約を求めました。村の財政の危機的状況をまだ皮膚感覚的に十分には受け止め切れていない発言が一部の課長さんからはありましたが、今回の予算審議等を充分に反芻(はんすう)して、これまでとは異なる感覚での予算執行にあたっていただきたいと思います。課長のみなさん。あなた方の双肩に村の財政の命運がかかっています。村民に奉仕する立場にあることを改めて再確認し、職務を遂行してください。
 以上で、討論を終わります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 保坂良徳議員、斎藤康夫議員も同様趣旨の討論をしました。他方、島田伯昭議員は森川村長を全面支持する趣旨での討論をしました。

 

◎ 栄村の財政はどういう状況にあるのかを説明します
■ いきなり30億円を切った一般会計予算
 令和2年度の栄村一般会計予算は総額29億5,800万円です。
 栄村では9年前の震災後、復旧・復興関係で予算(財政)規模が大きく膨らみました。しかし、復興関係の大きな事業も終わり、森川村政がスタートした頃から、通常の予算規模に戻すことが課題となっていました。森川氏が初めて予算編成した平成29年度予算は35.6億円、平成30年度は37.1億円、平成31年度(令和元年度)は32.2億円です。
 森川氏は平成31年度予算をめぐる議論の中で「通常の予算規模は30億円台前半」という認識を示していました。ところが、今回の予算はいきなり30億円を切り、29億5千万円。予算書を受け取った時(2月21日)、率直に言って、驚きました。
 何が起きているのでしょうか?

 

■ 家計に置き換えて説明してみます
 億の単位の話では村民のみなさんには馴染みにくいかと思いますので、家計に置き換えて説明してみたいと思います。
 一般会計予算約29億5千万円というのを、我が家の年間予算が295万円だという話に置き換えます。
 ただし、給料などで得られる年収が295万円あるということではありません。所得は295万円もないのですが、1年間の経費として295万円が必要だという話です。

 

    《支出》1年間の暮らしに264万円が必要。

        その他にローンの返済が31万円ある。
        両方を合わせて295万円。
    《収入》所得は233万円。貯金を35万円取り

        崩す。さらに新規のローンを27万
        円組む(借金)。

 

 こんな状況です。かなり苦しいですね。ローンの返済の一方で、新たなローンを組むというのは借金を返すために新たな借金をしている状況だとも言えます。別の言い方をすれば、年間295万円の家計ですが、ローンのことを考えると、実際は268万円の家計だといえます。所得が来年以降増える見込みは基本的にありません。そこで、大きな問題になってくるのは、「貯金の取り崩し」がいつまで可能なのかです。
 じつは、ここに大きな危機があります。我が家にはA口座とB口座という2つの貯金があります。A口座貯金は、病気や災害で所得が減った場合に備えるものです。令和2年度末の時点で77万円という見通し。これは災害で家が壊れるというような非常事態さえなければ、いましばらく持ちこたえられそうです。しかし、B口座貯金は震災に際して実家から特別にもらったお金を貯蓄したもので、令和2年度スタート時点では約13.4万円強あるのですが、これからの1年間で11.7万円取り崩してしまい、年度末には1.7万円になってしまいます。
 このB口座貯金、もとは25万円あったのですが、年々の生活費の一部に充てるために取り崩してきました。この貯金は震災に際して実家から特別にもらったお金が元になっているので、今後、増えることはありません。
 しかし、このB口座貯金の取り崩して日々の暮らしに不可欠な支出に充ててきたので、来年度以降、これまでの暮らしを維持するにはおカネが足らないということになります。

 

■ 「復興財政」頼りの財政の破綻
 B口座貯金、村の財政では「栄村震災復興特別基金」というものです。これが何に使われているのか、主なものをあきらかにします。
     集落活動支援金、人工透析通院支援、高校生等通

     学費補助金、予防接種事業、起業支援事業、新規

     雇用奨励事業、住宅リフォーム支援、若者定住マ

     イホーム支援、空き家活用等事業、集落公民館改修

 村の重要施策、そして森川氏が自らの「4年間の実績」と自慢している施策の財源です。令和3年度以降、これらの施策の財源がなくなるのです。質疑で課長が「財源をなんとか探したい」という苦しい答弁をされていましたが…。
 なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。
 「栄村震災復興特別基金」とは、元は、国が栄村の震災復興のために10億円を県を通じて供出したものです。当初は、村が復興に関わる重要事業の計画を県に提出し、県がその計画を了承した場合に、お金を村に渡していました。しかし、震災から5年を経て、平成28年度、県は残額の2.5億円を村に渡し、村が自主的に計画的に使うことを認めました。
 この2.5億円の使い方を、村、とくに森川村政は間違ったのです。本来は1回限りの「復興のための特別な事業」に充てるべきお金を、毎年必要となる事業(=恒久的事業)の財源に充ててしまったのです。原資が2.5億円の使い切り資金を恒久的事業の財源に充ててしまったのです。言いかえれば、「復興財源」に頼り切り、通常財政のあるべき姿の追求を怠ったのです。
 財政に通じている役場職員は、森川村政の財政運営のこういう問題性に気づいていたようです。でも、森川氏は職員の意見に耳を傾ける人ではありません。さらに、森川氏は4年前の選挙の際、「私は課長経験者。係長しか経験していない人とは違う」と自慢していましたが、残念ながら、役場で財務関係の部署で仕事をした経験がありません。「村の財政は、財務関係の部署を経験しないと分からない」と言われます。
 私はおのれの不明を恥じます。議員を4年間務めさせていただいてきて、満4年目を前にしてようやく村の財政の本当の姿が分かってきた次第ですから。
 今回の3月予算議会を前にして、過去の予算書も引っ張り出しながら、予算書を徹底的に読み込みました。ギリギリ間に合ったとも思います。4月に村長選があるからです。村長選では、この村財政の深刻な状況をしっかり頭に刻み込んで、私たちは賢明な判断をしていきたいと思います。

 


◎ 中山間第5期、ふるさと納税・農家支援策をめぐる問題
 3月議会では、一般質問と予算審議で、4月から始まる中山間地域等直接支払の第5期への村の準備・対応、ふるさと納税寄付金=農業振興基金の大幅減少(1億2〜5千万円から2,200万円程度に減少)と特A米加算金の廃止・農家支援策のあり方が、議論の大きな焦点の1つとなりました。

 

■ 議会直前に慌てて県に問い合わせた森川氏
 栄村の農業にとってとても大きな意味を有する中山間地域等直接支払制度。4月から第5期に入りますが、「集落戦略」の作成が求められるなど、内容が大きく変わります。各集落協定の責任者などが役場に「どうなるのですか?」と問い合わせても、回答は「国の制度がまだ届いていない」の一点張り。役場の対応への村民の不満と不安が高まっています。
 森川氏は4日の上倉議員の質問に答えて、「県に問い合わせた」と答弁しました。そこで、私は5日の一般質問で、「県に問い合わせたのはいつですか?」と尋ねました。すると、驚くべき答弁が出てきました。「一般質問の質問要旨通告を受けてから」というのです! それは2月下旬ということです。森川氏は議会一般質問の通告がなければ、栄村の農業にとっての大問題に関心をはらわず、調査や勉強をしていないのです。農水省のHPで数年前から公表されている「集落戦略の記載例」も森川氏はご存じありませんでした。

 

■ 稲作農家に玄米1俵2万円を保証する対案の検討を求めました
 ふるさと納税・稲作農家支援で森川氏が令和2年度予算案で示したのは、「ふるさと納税収入は2,200万円。返礼品としてJA米を購入するなどJAに854万円の委託費を支払う。農家には総額1千万円を上限に作付面積に応じて1反当たり5千円の支援金を出す」というものでした。
 「1反5千円」とは、1俵当たりわずか700円。これでは稲作農家はとてもやっていけません。私は、「返礼品としてJA米を購入するのではなく、農家から白米1俵3万円で購入。その代わり、返礼米発送は農家のみなさんにやってもらう(→村内の農事組合法人等への作業委託も可能)。他方、ふるさと納税で得られる収入のほぼ半額1千万円強は、農家によるお米の直売強化にむけての経費等の支援に充てて、栄村のお米のブランド販売を強化する」という対案を提案しました。この対案は玄米1俵2万円を農家に確実に保証することを目的としています。
 森川氏はこの対案の検討を農業委や農政審議会等に相談すると答弁しました。
1俵わずか700円の補助にとどまる村の案は少なくとも6月まで凍結して、ふるさと納税の真に有効な活用法をみんなで編み出していきましょう。これも4月の村長選の結果次第ということになります。

 


◎ 農産物直売所の指定管理更新をめぐる問題
 3月定例会には「栄村農産物販売所の指定管理者の指定について」という議案が提出されました。直売所かたくりの施設管理のことで、栄村農産物販売所出荷運営組合を指定管理者にするものですが、なぜか期間が1年間に限られています(従来は5年間)。どうやら、森川氏は物産館と直売所の経営統合を進めたいようです。
 また、指定管理に関する村と組合の協定書には「指定管理料支払い」の条項があるにもかかわらず、村は組合に補助金200万円を出すとして、指定管理料を決めていません。今議会に村が当初提出した「のよさの里」の指定管理協定では、事業収入がわずか400万円に過ぎないのに、550万円もの指定管理料を支払うとしているのとまったく対照的です。
 私は、指定管理制度及び指定管理料について、2018年9月定例議会で森川村長が答弁した村の基本方針を示しながら、「なぜ、村は指定管理料を支払わないのか」と質問しました。私の論旨は明解でしたが、森川氏は質疑の途中から、「議員が何を質問しているのか、分からない」と言って答弁を拒否、さらに、「議員は組合員か?」と尋ね、私が「設立当初から組合員です」と答えると、「議員の質問は利益誘導だ」と言って、私を攻撃しました。私が出荷運営組合の組合員であることは議員資格にまったく抵触しませんし、利益誘導にも該当しません。自分が答弁できなくなったら議員を攻撃する。まったく村長としてあるまじき態度です。
 森川氏は村長就任以来ずっと、直売所かたくりを敵視しているとしか思えない態度をとり続けています。農家が自らの農産物を自分が考えた価格で販売できる直売所は農家を元気にする大事な施設です。店長の小林さんが急逝された中、必死で頑張っている直売所を私はさらに応援していきたいと思います。

 


◎ 下高井農林高校の存続を願う意見書を可決
 3月定例会には多くの請願書・陳情書が提出されました。その中の1つが、「下高井農林高校を地域キャンパス(分校)化ではなく、現在のまま存続を求める請願」です。
 この案件は重要案件として、付託先の総務文教常任委員会での審議に先立って、3月4日の議会全員協議会(議長提出)で闊達(かったつ)な議論を行いました。首長らで構成される「岳北地域の高校の将来を考える協議会」は、「飯山高校、下高井農林高校の2校が存続が困難な場合は、下高井農林高校を地域キャンパス(分校)とする」という意見書を1月14日に県教育委員会に提出しています。しかし、高校生、父母、地域住民からは「議論が不十分」という批判の声が上がっています。そういう中での請願書提出です。
 議会は請願を採択したうえで、「県教育委員会が3月中に決定する第2期高校再編第一次分に岳北地区を含めないことを求める」という趣旨の県知事、県教育長宛の意見書を全会一致で可決しました。
 なお、3月定例会冒頭の教育施政方針で、石沢教育長は「飯山高校、下高井農林高校の2校存続を第一義とする」旨をあきらかにしています。議員の中にも、「首長・行政が決めたことに反する意見を議会が決めるのはどうか」という躊躇(ためら)いがあったようですが、住民の声に耳を傾けることこそ議会の使命です。議員として、議会として高校再編問題、下高井農林高校の存続・発展について、さらに勉強し、研究を深め、議論を進めていきたいと思います。

 

 

◎ 議員は何をしてよいか、何をしてはいけないか
   ――村長選をめぐって
 村長選挙が近づいてきています。
 その中で、議員が立候補予定者などと一緒に村内世帯を挨拶廻りする姿も見られます。村民の方から質問を受けます。「あれは、いいんかい?」と。私は選挙管理委員会でもありませんし、警察でもありませんから、断定的には言えませんが、常識的には「個別訪問禁止」に抵触する可能性大ですね。
 議員が村長選に関わることそのものは禁止ではありません。どういう村長が望ましいか、自分の考えをあきらかにすることはまったく問題ありません。しかし、議会、議員は行政を監視する責務を負っていますから、候補者ベッタリというのはよくないと思います。
 議員は3月定例会で浮かび上がった森川村政4年間の功罪について、自らの見解を表明したうえで、日々の議員活動を行うことが求められます。

 

 

◎ ようやく見えてきた議員活動のあり方
 3月定例会では、千曲川の湯滝橋〜十日町市中里の間が国の直轄管理ではなく県管理になっている(いわゆる「中抜け区間」)状況を解消するよう求める意見書も可決しました。この意見書を考えるため、2月の全協で、この「中抜け」の法的背景などについて私が調べたことを報告・説明させていただきました。
 また、6頁に記したふるさと納税・農家支援についての対案、今後、全協の場でより詳しく議論する機会を得たいと思っています。また、議会は昨年11月、福島県猪苗代町見祢集落を訪れ、集落営農の発展方法、農産物の販売等について学びました。その成果を活かすためにも、全協で議論し、よりよい政策を形成していくことが求められます。
 長野県飯綱町の議会改革が有名ですが、私は議員5年目を迎えて、ようやくですが、議員がどういう役割を果たしていくべきか、具体的に見えてきた感じがしています。
 「議会でこういうことを議論してほしい」ということ、是非、ご意見・ご要望を積極的にお寄せください。

 


栄村復興への歩みNo.377(2月12日付)

 

 

1つの問題提起です。
スノーモービル愛好者と話し合ってみませんか

 

 8日夜にトマトの国の温泉で出会った人たちが、9日に野々海でスノーモービルを楽しんだ後に私に送ってくださった写真です。
送って下さったのは千葉県で住宅関係の会社を営んでいる人です。4〜5人のグループで来ておられました。

 

● 「オレたちの土地だ。勝手に入るな!」――「怒鳴られて、どうしようかと思った」
 これは温泉で話した時、グループの一人が言っておられた言葉です。8日午前、平滝集落の中をモービル積載車で通った時に言われたそうです。
 言った平滝の人の気持ちは痛いほどにわかります。
 静かな集落に、何台もの車がエンジン音をたてて入り込んで来たら、うるさく感じますね。また、簡易水道配水施設の近くに大量の車が駐車しているのにも苛立つ気持ちが生まれるでしょう(下写真は9日朝9時ころ)。

 


 モービルが道路のアスファルトを傷つけることなどがあった4〜5年前、私は平滝の人に依頼されて、その傷跡などを証拠撮影したこともあります。

 

● 「地元の人たちのご理解を得られるようにしたい」――モービルの人たちの思い
 冒頭に掲載の写真を送って下さった際、「モービルはどこのゲレンデでも駐車場、ゴミ、枝切り環境の問題で邪険にされますが少しでもご理解頂けるように努力したいと思います」というメッセージが書かれていました。
 私は昨年春、そして今年といくつかのモービル愛好者のグループの人たちと出会い、話し合いの機会をもちました。
 みなさんが一様に言われるのは、「地元と話し合いをして、野々海周辺でのモービル走行についてルールの取り決めをしたい。ルールが決まれば、モービル仲間のネットワークで周知徹底させます」ということです。群馬県でそういう実践例があるそうです。
私が声かけをさせていただいたところ、平滝には、そういう取り組みを検討する価値があるとの考えをお持ちの方もおられます。

 

●モービル遊びって、どんなものなのでしょうか?
 写真を送ってくださった人のfacebookに動画が紹介されていました。山の上の起伏がある広大な雪原を走る姿はなるほど楽しそうです。
 私は、9年前の震災直後、青倉の水路の被災状況をチェックするために、スノーモービルに乗せてもらって、貝立山の方へ上がったことがあります。かなりおっかなかったですが、低木はすべて雪の下になっている中、平素は走れないような場所をグングン進んでいくのに興奮したことを覚えています。
 スノーモービルはウィンタースポーツの1つなのだと思います。しかも、スキーやボードのように基本的に整備されたコースで滑走するのではなく、普通には入っていけないような山の上が最高の場なのだと思います。

 


 上写真は、千葉の人のfacebookから転載させていただくものですが、モービルがスタックしています。新雪の中ではよく起こることのようです。そして、ここからの脱出がまた面白いとも聞きます。
 そういうことも含めて、栄村、とくに野々海の一帯は最高のフィールドなのだと思います。

 

● とにかく話し合いの場をもってみませんか
 モービルをやる人たちの話を私が紹介するだけでは、地元の人は簡単に納得できないと思います。まずは、落ち着いた場で、互いに顔を見つめ合って、お話するのが一番よいのでは、と思います。8〜9日にお会いした人たちの中には「栄村にボランティア活動に来て交流したい」と言う人もおられました。
 話し合いはトマトの国に温泉に入りに来る時に合わせて時間・場を設定することも可能だと思います。関係者のみなさま、とくに平滝のみなさま、是非、ご意見・ご意向を松尾にお聞かせください。

 


野々海池周辺は約5mの積雪だそうです。モービルの人が穴を掘り、計測してくれました。

 


やっと来た大雪が創り出した素敵な景色

中津川峡谷(2月7日午前10時すぎ)

 

夕陽に映える苗場山山系(2月7日午後4時半すぎ)

 

 2月初めまではほとんど雪がなかった栄村。ここまで雪がない栄村は私にとっては初体験でした。ところが、6日の大雪で景色が一変。快晴となった7日は随所に「冬の栄村ならでは」の素晴らしい景色が広がりました。7日は秋山行でしたので、4枚中3枚までが秋山の写真ですが、じっくりご覧ください。

 

雪を飛ばす(2月6日昼前、極野にて)

 

赤瑤瞭(鳥甲山連山、2月7日午前11時すぎ)

 

 暮らしにとっても必要な雪。今回は11日午前段階でまだ降り続き、ちょっと厄介ですが。
 雪飛ばしの様子を1枚紹介しましたが、冬の栄村は雪飛ばしなどの除雪作業があってこそ、活気、賑やかさが生まれるんだなあということにも気づきました。
 冬は冬らしく、そしてそれを越えれば鮮やかな芽吹き。やはりそういう栄村が素敵です。


ロマンを求める人たち ―― 鳥甲山登山はどのようにして始まったか

● 雑誌『旅』1958年8月号
   「鳥甲山という山 知ってる? と そのころ山友だちに

    会うとこっそりたずねるのが嬉しかった」
 こんな一文が含まれる、串田孫一氏(串田氏については本項の最後に記述)のエッセイが『旅』という雑誌*の1958(昭和33)年8月号に掲載されました。
    *雑誌『旅』は1924年から2012年まで発行されてい

     た旅行雑誌。発行元は日本旅行協会、日本交通公社

     (後にJTBに社名変更)、新潮社と変わった。1958

     年当時は日本交通公社発行。
 もう半世紀前のことになります。串田さんが「鳥甲山という山知ってる?」と友だちの問いかけたのは、鳥甲山がまさに無名の山だったからこそです。その時代の登山家たちは無名の山こそを求めたのです。鳥甲山−秋山がある上信越国境はそうした登山家たちにとって最も魅力溢れるところだったのです。なぜ、無名の山、未踏の山を求めるのか? 〈ロマンを求める〉ということなのでしょう。

 

 さて、串田さんのエッセイがきっかけとなって、日本中の登山愛好者に鳥甲山の名と素晴らしさが知られるようになり、いっきに登山者が増えたと言われています。
 串田孫一さんが鳥甲山に登る時、定宿にしていた「仁成館」(和山、現在は廃業)の2代目当主・関谷清さんの二女である相澤清子さんは子どもの頃、仁成館に来られる串田さんに可愛がられたそうで、串田さんのことをよくご存じです。その相澤清子さんが、「串田先生が雑誌に鳥甲山のことを書かれたのがきっかけで登山者が増えたのよ」と言っておられるので、間違いない歴史的事実だといえます。

 

● 1937年(昭和12年)8月、中村謙さん、関谷清さんが鳥甲山にチャレンジ
 串田孫一さんとほぼ同世代で著名な登山家に中村謙さんという人がおられました。
 中村謙さんも「仁成館」を定宿とされていて、相澤清子さんはよく覚えておられます。中村さんが鳥甲山のことも書いている『ふるさとの山――上信越国境を歩む』(1969年・昭和44年刊)という本を清子さんがお持ちで、最近、拝見させていただきました。
 その本には次のように記されています。

 

   「私が初めて秋山郷を訪れたとき、古老から聞いたところに

    よると、むかしは村の人々で鳥甲山へ上ったものもあった

    が、この頃では全くなくなった。したがって、山中の事情

    にも疎いためか、村人は日夜これを仰いで恐ろしい山、近

    よりがたい山として、徒(いたずら)に神聖視するだけだと

    いう。」

 

 中村氏は、1934年(昭和9年)7月から9月にかけて2組のグループと個人1名が鳥甲山登山に挑戦したと記しています。そして、1937年(昭和12年)8月15日、中村氏が「仁成館」の関谷清さんと共に、鳥甲山にチャレンジしたことが書かれています。

 『ふるさとの山』では、白沢から登り始め、鳥甲山頂上への登攀に成功、その後、露営をして、翌16日、五宝木を経て北野に下山したと、ある意味では淡々と書かれています。しかし、実際は「鳥甲山初の遭難」という騒ぎがあったようです。当初の予定では15日のうちに「仁成館」に戻る予定だったのが、翌16日の夕暮れが近づいても帰ってこないので、消防団が捜索・救助のために「仁成館」前に集合していたところに中村さんと清さんが戻ってきたというのが実際であったというのです。相澤清子さんがそのように記憶されています(清子さんは、その頃、まだ生まれておられませんが、親などからそういう話を聞いて覚えておられます。)

 

上ノ原「とっちゃ」から見る鳥甲山

 

中村謙さんの本に掲載の地図。赤色の矢印の地点から←方向に眺めた様子が左写真になります。


● 「猛烈な篠竹のヤブ」
 中村謙さんの自筆の登山記を拝見する機会がありました。その登山記によれば、白沢からアタック。現在のムジナ平から尾根を上っていく登山道は当時はまだありませんでした。7頁掲載写真の撮影地点(「とっちゃ」)付近から夏でも残雪のある白(くら)の沢を遡っていって、尾根(黒木尾根)を上がり、さらに「猛烈な篠竹の薮」と約30分格闘して頂上直下に到る、その後20分で頂上に到達したとのことです。
 「篠竹の薮」が非常に大変だったようで、鳥甲山の登山コースとして自分たちが進んだ白沢コースを薦めながらも、「篠竹のヤブくぐりの経験のない者には無理だ」と書かれています。そして、相澤清子さんによれば、この時の「遭難」騒ぎをきっかけとして、関谷清さんが今日につながる鳥甲山の登山道の開発に乗り出されたそうです。

 

 鳥甲山登山にこんな歴史があったとは驚きです。
 こういうことを知るのと知らないのとでは、鳥甲山の魅力、さらに秋山(−栄村)の素晴らしさを発信していくうえで大きな違いがあると思います。逆に言うと、秋山の山岳観光を謳いながら、栄村からの情報発信に串田さんや中村さんのことが出てこないのはおかしいと思います。素っ頓狂な思いつきと笑われるかもしれませんが、こういう歴史(物語)を明らかにしていけば、たとえば『ブラタモリ』のような全国放送の本格的な番組で鳥甲山や秋山を取り上げてもらうことにもつながっていくと思うのです。

 

 今回はまだほんのささやかな序章です。今後、この続きを紹介していきたいと思っています。是非、ご注目ください。

 

    〔串田孫一さん〕哲学者にして詩人・エッセイスト、

     登山家。1915(大正4)年−2005(平成17)年。

     東京外国語大学教授であった。山に関する著作を

     多く残している。また、長年、FMラジオのパーソ

     ナリティも務めた。長男の串田和美氏は現在も活

     躍中の演出家・俳優。


栄村復興への歩みNo.376(2月2日付)

 

千曲川緊急治水対策プロジェクト、栄村の治水対策を読みとり、考える
 2月1日、信濃毎日新聞で台風19号災害をうけての「緊急治水対策プロジェクト」について予算規模、対策工事実施箇所等が報道されました。お読みになった方も多いと思います。
 信毎はかなり紙面を割いて詳しく報道してくれていますが、記事を読んでも栄村域内の千曲川の対策はほとんどわかりません。1頁冒頭の図をご覧ください。
 これは国交省北陸地方整備局が1月31日に発表した「緊急プロジェクト最終とりまとめ」の中にある対策工事等の「位置図」から栄村に関係する部分を切り抜いたものです。図の中の印の意味はつぎのとおりです。

 

 

 

 この図(と関連文書)から、栄村での対策は、箕作・月岡地区での堤防整備*、大巻川・天代川・北野川・志久見川での災害復旧工事、中津川(屋敷)での災害復旧工事、中津川での砂防堰堤工事であることがわかります。箕作・月岡での堤防整備はH27年度策定の河川整備計画にある堤防整備計画の実施であり、その計画からのさらなる延長や嵩上げは入っていないと見られます。
    *なお、図では箕作・月岡の堤防整備箇所のすぐそばに

     「×」印が入っていますが、これが示す災害復旧工事が

     何であるのかは、この原稿を書いている段階では未判明

     です。すでに国の査定が済んでいる平滝の農地・農道崩

     落箇所での護岸工事を指している可能性があると思いま

     す。


● 災害対策と地域メディアの重要性
 「信毎を詳しく読んでも栄村域内での対策の内容が分からない」というのは、信毎の責任だとは私は思いません。信毎は長野県全域を対象とする新聞ですから、紙面にも限りがあって、今回のような場合、栄村域内の対策内容までは掲載できなくてもやむをえないからです。
 そこで重要になるのがもっと狭い地域範囲を対象とする地域メディア、ミニコミです。栄村で地域紙といえば妻有新聞が思い浮かびます。でも、妻有新聞でも、本紙今号の1頁の図などを掲載することが難しいことはありえるかと思います。やはり栄村には栄村の地域メディアが必要になってきます。私は9年前の震災以降、そういう思いもあって本紙「栄村復興への歩み」を発行し続けてきました。役割を充分に果たせているとは言えないと思っていますが…。

 私はじつはスマホを使っていません。ガラケイのままです。それなりの理由があってのことです。私がfacebookやtwitterに発信する場合はパソコンからのものです。ただ、これからの災害を考えると、スマホを駆使しての地域メディアの情報発信も必須かなと思います。ただ、今から私がその役割を果たすことには躊躇があります。若い世代の人がそういうことにチャレンジしてくれるといいなあと思っています。どなたか手を挙げていただけないでしょうか。
 こんなことを言うのは、台風19号災害を振り返る中で、ある問題提起を目にしたからです。その問題提起の趣旨を簡潔にまとめると、「災害時、テレビやラジオでは視聴者が暮らす地域の緊急情報が充分に伝わらず、逃げ遅れなどの問題が生ずる」ということです。「緊急治水対策プロジェクト」でも「逃げ遅れ」をなくすために情報発信・伝達をどう改善するかが重要課題の1つとして取り上げられています。なかなか難しい問題ですが、真剣に検討する必要があります。

 

● 台風19号での栄村での災害・被害の状況を詳しく検証し、住民全員共有の認識にすることが大切
 村民のみなさんは、台風19号の際、千曲川の水位が百合居橋付近でどのように上昇していったのかをご存じでしょうか。百合居地区の人も含めて、詳しくはご存じない方が多いのではないでしょうか。
 次の数字をご覧ください。

 

  日付   時刻   水位(cm)
  12日  23:00   320
  13日   0:00          360

                   0:30          375

                   1:00          400

                   1:30          420

                   2:00          450

                   2:30          480

                   3:00          500

                   3:30          550

                   4:00          610

                   4:30          660

                   5:00          700

                   5:30          750

                   6:00          800

 

 これは百合居の排水門のところにある水位計で10月12日夜から13日朝にかけて1時間毎ないし30分毎の水位の変化を記録したものです。月岡の関係者がメモされていたものを教えていただき表にしました。
 午前3時以降、30分間で水位が50センチ上がっていることがわかります。12日午後11時〜午前3時の間よりもいっきに水位上昇のテンポが速くなっています。
 この水位観測データを基に、箕作の人たちは浸水が予想される倉庫から農機具等を移動・避難させること、月岡の人たちは暗闇の中での避難行動を避け、夜明け近い時間帯での避難行動を選択することが可能となりました。
 これは現場で警戒にあたっていた消防団の、長年の経験をふまえた沈着冷静な判断が導いたものだと思います。この他にも、減災のために、災害発生時前に箕作や月岡で実施されたさまざまな措置があります。
 こうしたことを記録として留め、地域の住民全員が共有するものとすることが大事です。それはまた、他の地域の人たちにも役立ちます。実際、津南町の人は「足滝では収穫したばかりのお米や農機具がダメになってしまったのに、栄村の箕作・月岡ではなぜ農機具などの被害を防げたのですか」と尋ねてこられています。記録集をお見せし、「こういう行動をするといいんだよ」とアドバイスできるようになると良いと思います。

 

10月13日午前6時の百合居橋付近の水位状況(写真右に百合居橋が見える)

 

● 2月13日の箕作公民館での話し合いに注目
 県北信建設事務所職員を招いて、箕作・月岡での堤防改修についての話し合いが2月13日(午後6時半)に開催されます。元々は地区住民を対象とするものですが、村議会議員にも案内されています。
 これは「説明会」ではありません。「話し合い」です。
 建設事務所から「緊急プロジェクト」等についてしっかり聞くと同時に、地元側が台風19号の被害の実相と地元がとった避難行動・減災対策等をしっかり説明することが大事だと思います。それによって国・県にとってもらわなければならない対策(堤防の延長、内水排水、大巻の農地の洪水流入防止対策等)を浮き彫りにして、建設事務所の理解を得られるようにしていくということです。2年前にも話し合いの機会があったようですが、建設事務所は「災害時、いっぱい写真を撮っておいてください」と言っていたようです。大巻の田んぼ・畑への洪水の流入の様子など、リアルに伝えることはとりわけ重要だと思います。
 2月13日の話し合いに注目したいと思います。

 


大巻地区の田畑への洪水の流入。赤ラインの左は、平時はすべて田畑。


遊水地整備は大きな決断。我が事として注目しよう。

 今回の「緊急プロジェクト」では、千曲川流域の4ヶ所(ただし、犀川の1ヶ所を含む)で《遊水地の整備》が打ち出されました。
 これはきわめて重要なことで、私は非常に強い衝撃をうけ、かつ、感心しています。
 本紙No.372(12月23日付)で報告したとおり、私は昨年12月22日に千曲川沿いを佐久市まで辿ってみました。私の1つの目的はじつは、〈佐久市〜千曲市の間に遊水地を確保することができるか〉を実地見分(けんぶん)することにありました。ただ、千曲川沿いに住宅が多いところなどは立ち退き問題が生じますし、農地の場合も地権者の了承を得ることの大変さが念頭にあり、No.372では遊水地のことを真正面から書くことはできませんでした。日和見(ひよりみ)であったと言われれば、そのとおりだと思いますが…。
 私が「遊水地が必要」と考えたのは、千曲川の源流部〜佐久〜千曲市間の勾配と、長野市より下流域の勾配の大きな違いです。千曲川が流れる地域の標高の差を示す図を再掲します。上流での勾配率1/50、長野盆地〜飯山盆地での勾配率1/1,000〜1/1,500という数字に注目してください。

 


 長野盆地等で氾濫させないためには、1/50を下ってくる大水を途中で少しでも貯留させて、「いっきに流下する」ことを食い止める以外にないと思います。
 「緊急プロジェクト」で打ち出された佐久市と千曲市の「遊水地整備候補地」を見てみましょう。

 

 

 

 いずれも候補ゾーンだけが示され、「遊水地の位置、対策内容については、今後の調査・検討等を踏まえ、決定する」と但し書きされています。
 佐久市の候補ゾーンはじつは私も「ここは候補地だなあ」と思っていたところです。No.372の冒頭写真で示した場所の周辺です。農用地が主たるゾーンですが、幹線道路の国道141号線が通っており、また佐久市の新興市街地も近いところです。
 千曲市の候補ゾーンは次の写真で示すあたりです。千曲川の水位を知らせる時に「杭瀬下(くいせけ)」として出てくるところです。 

 

千曲橋上流左岸から撮影。写真右奥に市役所新庁舎が見える。

 

左岸堤防内側すぐの所に住宅

 

千曲市市役所新庁舎


 このゾーンの河川敷にはスポーツ施設等があります。これは台風19号の際には水没しました。しかし、この河川敷だけでは十分な遊水地の確保はできません。そこでさらに千曲川沿いの地域に目を向けると、「遊水地の確保は大変だなあ」というのが私の実感でした。なぜなら、堤防のすぐ内側には住宅が密集しています。また、右岸には昨年8月に新築オープンしたばかりの千曲市役所庁舎があります。

 以上のような状況ですので、「緊急プロジェクト」で遊水地整備が打ち出されたのは本当に大きな決断だと思います。
 千曲市役所周辺の浸水については、「その原因が霞堤にあるのではないか」という見方が市長から出されるなど、論議があります。2月2日の信毎によれば、千曲市は台風19号での浸水をコンピューターで解析するシミュレーションを行うとしています。きわめて冷静で的確な措置だと思います。その結果も踏まえて、遊水地をどのように確保するか、慎重に検討されることを望みます。と同時に、千曲市から遠く離れた栄村でも、この問題を他人事としてではなく、我が事として受けとめ、考えることが必要だと思います。そうしたことによってこそ、《上下流一体となった治水対策》が可能になるのだと考えます。

   *霞堤:堤防のある区間に開口部を設け、その下流の堤防を

    堤内地側に延長させて、開口部の上流の堤防と二重になる

    ようにした不連続な堤防。
 なお、中野市・飯山市で検討される遊水地は、立ヶ花狭窄部と戸狩狭窄部での河床掘削との関係で必要不可欠になるものだと思います。今回は詳しく触れることができませんが、この箇所についても我が事として受けとめ、考えていくことが必要だと思います。


栄村復興への歩みNo.375(1月21日付)

 

冬の顔、春の顔

 


 共に1月17日昼の撮影。今冬は「雪がない」と言っていいほどに雪が少ないですが、それでも秋山の「はちみつ屋」と前倉橋の間の曲がりくねる405号線には雪国の人でなければ「おっかない」と感じるような、道路に雪が迫ってくるところが(1枚目写真)。
 でも、同じ405号線、清水河原から結東にむかう上り道の対岸、見倉集落の下の急峻な山には木々が枝の先端を赤くしている“春の顔”が一面に広がっています(1頁下写真)。この“春の顔”、私は一昨年は2月23日の景色として本紙に掲載しています(下写真)。

 


 この原稿を書いている21日朝、久々に雪がしっかり積もり、窓の外ではロータリーがエンジン音をけたたましく響かせながら、国道の除雪を行っていますが、ともかく異常気象です。来年以降の冬がどうなるのか、そして、それより前に今夏の暑さ、台風等の災害がどうなるのか、とても心配ですね。
 

 


鳥甲山を見つめる

 

 赤(くら)の岩のごつごつした感じが私の目をとらえて離しません。1月12日昼前、上ノ原にて。

 

 

 鳥甲山の山頂を真正面に見る。鳥甲山を東側から眺めると、白瑤篝庠瑤前面に出て、鳥甲山の頂上は陰に隠れるようにしか見えません。上ノ原集落のあるポイントからのみ、こういう姿を真正面にとらえることができます。

 


 霧と雲に覆われて鳥甲山の姿がほとんど見えません。20日午後3時。写真手前にほとんど雪に埋もれてしまった眺望ベンチが一部だけ顔を出しています。

 

● 思い浮かぶ一文
 3枚目の写真。これまでの私なら、その日の鳥甲山の様子の記録として手許に残しておくことはあっても、紙面に紹介することはなかったでしょう。でも、数日前に読んだ串田孫一の文章が私の頭に深く刻み込まれています。

 

   「私たちは山が荒れるとか、時には山が怒ると言うが、烈風の音

    高く、山のすべてが恐るべき色と音とに包まれている時、山は

    むしろ沈着に、むしろ優れた深い美しさにその存在を主張する。

    荒れ廻っているのは風であり、乱れた雲であり、それにもてあ

    そばれている雨や雪である。その中で、山は独り冷たく沈みな

    がら、いよいよその重みのある姿によって存在を主張し続ける。

    それは時には、というよりも多くの場合、私たちの眼からは見

    えない。しかし、その風と雨との荒れ狂う中で、草木のさわぐ

    その中で、山は独り不動の姿勢をとっている。この、私たちが、

    意志や抵抗や、その他の言葉をもってしても表わすことの出来

    ない姿勢は、私たちの羨望からは遥かに遠く、またそこから学

    ぼうとする謙虚な心にも無関心に、しかも今私の目の前に輝い

    ている。」

 

 「岩上の想い」という文章の一節です(『若き日の山』ヤマケイ文庫より)。
 串田孫一は、かつて、和山・仁成館に頻繁に宿し、鳥甲山に登った著名な登山家にして、哲学者、エッセイスト。彼の山岳紀行文なしに鳥甲山が世の人びとに知られるようになることはなかったでしょう。
 美しく姿輝かせる時も、霧や雲に姿を隠す時も、鳥甲山をじっと見つめる。何かを想う。そんな行為の繰り返しの中に、《秋山の魅力とは何ぞや?》が解き明かされていくのではないか。そんなことを考えています。