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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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配達日誌4月29、30日

29日(火) 私の住み処の雪消え日となった。

     午前8時3分

     午前10時57分
 
 配達に出かける際に撮ったのが8時3分。「帰ってきたら消えているだろうな」と思って出掛けたが、10時57分、帰ってくると案の定、雪の姿はもはやなかった。ちなみに、10日前の19日午後2時45分にはまだかなりの量が残っていて、「陽当りがいい場所ではないので、いつ消えるかな?」と興味をもち、断続的に撮影していた。

    
 昼前には出かけなければならないので、急いで森、横倉、平滝、月岡の未配達箇所110軒を廻った。平滝では苗箱の土詰めを86歳のばあちゃんと一緒に始めようとしていたおとうさんからヒマワリの種をいただいた。どこかに播いてみたい。また、月岡では作業中のかあちゃんたちが声をかけてくれたり、手をあげて挨拶してくれたり。励みになる。
 平滝で、社協の車や保健師ないし看護師と思われる人の自宅訪問を見かけた。休日であるにもかかわらずの巡回だ。感心した。
 11時すぎに村を出て、十二峠通行止めのため、大沢トンネル経由で越後湯沢へ。

30日(水) 湯沢午後8時すぎ着の新幹線で戻り、大沢トンネル経由の帰路へ。「迂回しなければならない」というのでやや気が重かったが、9時5分には帰着できた。そんなに時間がかかるわけでもない。
 家に着き、車を降りた途端、耳に入ったのがカエルの鳴き声。これには驚いた。気温はまだ13℃くらいあり、薄着だったが、寒くはなかった。明日からは5月。また新しいシリーズ(No.219の作成と配達)が始まる。
 

配達日誌4月26〜28日

26日(土) 腰の具合もよく、9時半頃からいくつかの場所を訪ね、さらに程久保、野田沢と廻ったが、背中の張りがひどくなってきて、配達を中止。治療に行く。
 午前中、動いた過程で芽吹きが始まっていることに気づく。治療から帰った後、芽吹きの写真などをFacebook、ブログにアップして、今日はもう体力がもたなくなった。

長者林(野田沢のブナ林)の芽吹きのはじまり

27日(日) 昨日に続いて今日も朝から好天で、気温も上がる。村の景色が一変した。山の芽吹きが進み、山の半分くらいが芽吹き期特有の、なんとも言えずきれいな薄緑色に。雪もどんどん消えていく。青倉の田んぼからほとんど雪が消えた。ほんの1日か1日半のうちに。この変化は、村8年目の私が初めて経験するドラスティックなものだ。
 体調はまずまずで、今日1日で124軒廻れた。
 昼から2時間強、東京から来られた知人と昼食、城ヶ館〜西山田案内。22日には残雪がまだいっぱいあったのに、今日はスキー場内の村道から城ヶ館〜西山田に車で行くことができた。スキー場中腹にある「眺望点」から見ると、青倉に雪がないのに、標高差ではわずかな今泉の田んぼはまだ真っ白。そのコントラストに感嘆する。

雪で白いのが今泉。青倉(国道117の赤い橋が見える)には雪がない

 ある集落で、この数回の配達時、必ず顔を合わせる人がいる。一人暮らしのばあちゃんの息子さんだ。今日、思い切って尋ねてみた、「最近はほとんどこちらですか?」。「ええ、1週間に1回、長野に帰ります」。以前におばあちゃんから聞いていたところからすると、今春、定年を迎えられたのではないかと思う。
 箕作で出会った顔見知りのとうちゃんは、「急に忙しくなった」と。みんな田に、畑に出ている。

田起こしする中沢日出男さん(27日、小滝)

28日(月) とにかく配達の遅れを取り戻さなければならないという思いで、ひたすら配達に廻る。カメラの調子がよくないので、写真撮影に時間がかかることが多い。できるだけ写真撮影を減らそうと思うも、やはり撮りたい、撮らねばと思う場面がしばしば。カメラは少なくとも修理が必要なようなのだが、修理には2週間くらい要す     
るという。その間のためにも新しいものを1台、手に入れなければならないようだ。

東部谷では随所でぜんまい揉みが始まった
(写真は坪野・斉藤茂さん宅)

 あるところで、草取り中のおかあさんと少し話す。「雨が降らないので土が硬くて草が取りにくい。おしめりが欲しい」と。村で感心することの1つは、とにかく春が来ると同時にかあちゃんたちが草取りを始めること。昨日聞いたところでは、「いまとっておかないとやっかいになる」とのこと。                  
 配達には雨ではない方が有難いのだが、“恵みの雨”が必要なようだ。
 今日は計177軒。

今日のお気に入りの1枚。満開の桜をバックに栃の木の花が見事に開花
(雪坪集落にて)

配達日誌4月24日、25日

24日(木) 昼すぎ、パソコンにむかって座った直後に腰に違和感。ぎっくり腰が来る時のそれだ。案の定、どんどんおかしくなり、午後、急遽治療へ。予定している取材はやらねばならないが、配達は1〜2日休むしかない。
 今日は朝8時前、頼之さんのハウスへ。8時から仮植作業が始まるからだ。詳しいことは「追っかけ:頼さんのトマトづくり」に書く。9時前にひとまずの取材を終え、「和久さんの牛舎の子牛を撮っておこう」と思い、牛舎に立ち寄る。

 長男の大(ひろき)さんから「もうすぐ知事が来る」と聞いて、すぐに山を下りる予定を変え、牛舎、トマトハウスの視察の模様を撮影。知事がトマトジュースを飲む様子は昼すぎにFacebookにアップした。知事に「貝廻坂やトマト栽培を視察していただきたい」とお願いしたことがあったが、まさか来られるとは思っていなかった。
 もともとの予定では、午前11時から飯綱町の老人会の人たちの研修会(於:「トマトの国」)でお話をする予定で、その前に1時間半くらい配達するつもりだったが、配達が吹っ飛んでしまった。
 研修会で話していると、震災直後にことがいろいろと思いだされてきた。いまの段階で、一度、当時のことを振り返る作業をするのがいいのではと思う。
 研修会の前、「トマトの国」のすぐ下の土石流跡へ下りて、撮影。谷止工のダムには冬の間にまた土砂が大量に溜まっている。

 研修会の後、雪の上の桜も撮影。ホッとする景色だ。
 そして、昼休みのぎっくり腰。でも、今日の仮植作業が夕刻5時半頃に終わるとのことで、「夕刻にもう一度来ます」と言ったので、5時すぎにハウスへ。作業は全体の半分が終わっていた。和久さんが来ていて、頼之さんらと話している。どうやら、村内で野焼きに関わる火事騒ぎがあり、消防団として出動した息子さんたちが戻らず、ポンプ小屋か公民館で飲んでいるらしい。興味深々な話。帰りに野田沢に立ち寄り、ポンプ小屋で一杯やっているところに立ち寄ってみる。なにかとてもいい雰囲気だ。都会にはない空間と時間だと思う。
 夜は、中条川土石流対策の住民説明会。「復興への歩み」本体で扱いたいと思うが、図面も含めて紹介したら、レポート1回分くらいになる。とにかく治山治水には砂防ダムを造るという以外の発想法がないようだ。いま言ってもどうにもならないが、武田信玄の霞堤がよく事例として挙げられる治水方法などに倣って、「土石流を安全に流す」というような発想法の転換が必要なのではないか、まったくの素人考えだが、思うところだ。

25日(金) 久しぶりに朝8時近くまで眠っていた。起きてから数時間はぎっくり腰の症状で歩きにくかったが、昼ごろからあまり気にならなくなった。
 今日は中越大地震の被災地で、集落ぐるみの復興・地域活性化に取り組んでいる若栃集落(小千谷市)真人(まっと)町)を訪問する予定で、受け入れを約束してもらっていたので、午前10時半すぎに村を出た(ぎっくり腰の症状を考え、出発前の配達活動は中止した)。先方の細(ほそ)金(がね)剛さんに予めご指示いただいたコースで向かったが、国道403号線に入って間もなく、あまりに狭い「トンネル」に出くわし、驚いた。車1台がギリギリというもの。トンネルを抜けたところで「記念撮影」したのだが、トンネルを抜けたところの直下の深い谷で新トンネルと道路の建設工事が行われていた。トンネルの上の山が芽吹いているのが目にまぶしかった。

 その後、山の崖面の深い谷筋に田んぼがある様子を見て驚いているうちに、あっという間に若栃に到着。あらかじめ自分で計画していたことなのだが、細金さんにお会いする前に若栃の中を廻り、田んぼなどを見て廻った。平地といえる場所が基本的になく、田んぼのほとんどが谷の中にある。「棚田」というよりも、「谷底田」という感じ(下写真)。細金さんが栄村の震災の直後に村に来て下さったときに、「一度はみんな諦めかけたが、田んぼの復旧をしようということになった」と話されていたが、今回、私がその田んぼを実際に見た感想としては、「こういう大変な場所にある田んぼを復旧しようという気によくなったものだ」ということだった。

 午後1時半から細金さんからいろんなお話を聞き、古民家再生の民宿「おっこの木」も内部を見せていただいた。
 今回の見学の結果はまた本紙でレポートしたい。

配達日誌4月22日、23日

22日(火) 今日はまず頼之さんのハウスを訪ねることから始めた。頼之さんは通院とのことで不在だったが、奥さん、息子さん、娘さんがおられ、仮植作業に備えて、ハウス内の整理に忙しくしておられた。仮植は24、25日の予定だそうで、親戚などの手伝いが入るという。
 その後、貝廻坂を下りて、平滝、白鳥を廻り、さらに青倉へ。お訪ねしようと思っていたお宅が来客中のようだったので、気が変わり、青倉の山の田んぼ巡りに出かけてしまった。11時すぎに上がり、写真をいっぱい撮って、下りてきたら1時をまわっていた。

こんな景色を眺めながら、2時間ほど歩いてきました

 昼食後、さらに配達に廻り、農作業姿なども撮影。4時すぎからは青倉米の袋詰め作業。
 今日は膨大な写真を撮ったため、夕刻6時前から整理を始め、夕食をはさんで、結局夜10時近くになってしまった。もう少し計画的に行動しなければとも思うが、「気が変わって…」というケースのほうが収穫が多いのも事実。悩ましいところだ。

23日(水) 朝5時に起きて、午前中一杯、配達ではなく、メール返信、米袋詰め、取材、「お米のふるさと便り」の原稿書きと編集・印刷など(今回の「お米のふるさと便り」は村の春の紹介として面白いと思うので、後にブログにアップするつもり)。
 昼食時、眠気を催すも、踏ん張って午後は配達へ。しかし、46軒を廻ったところで、「今日はもう無理」と思い、配達を終わらせた。No.218発行から3日目でまだ3分の1。今週は明日以降もいろんな予定が入っているので、ややピンチ。
 そんな多忙の中で面白かったのが「閻魔様」との出会い。19日の配達日誌で書いた大久保集落のお堂(地元の人たちは「観音堂」と呼んでいて、それも間違いではないが、どうやら観音様も祀ってある十王堂というのが正しいようだ)。寺社建築の専門家・宮川和工さんが修理のための実測調査に来てくださった。私はお昼頃にご挨拶に伺うことしかできなかったが、そこで出会ったのが閻魔様。「十王」とは冥土で亡者の罪を裁く十人の判官のこと。その一人が閻魔大王で、死後35日目に出会うそうだ。閻魔王の前では、「生前の悪事が浄玻璃の鏡に写し出されるので、うそを言ってもばれる」という。

閻魔大王の木像

 十王堂は多くの集落にある。大久保のお堂はそばに桜の木があり、独特の景観をつくりだしていて、遠くは首
都圏から写真を撮りに来る人もいる。
 こういうものは復興資金を少々使っても守る価値があると私は思っている。

                               

配達日誌4月17日〜19日

17日(木) No.217の配達が完了しているので、「余裕をもって」いろんなところに出かける。
 まず、スキー場内を貝立山方向に上がる道の除雪状況を見に行く。この3日間ほど、入ってすぐのところに車が停められていて進入できなかったが、今日はスノーロータリー車が道脇に寄っていて通過できた。どんどん上がって行ったが、除雪は第1リフトと第2リフトの中継点手前まで。下りてきて、スキー場内にキュウリ畑をもつ青倉の高橋正好さんがロータリーで畑の除雪をしている様子を撮影(「復興への歩み」No.218の「進む春作業」を参照)。

黄色はスノーロータリーの一部。真ん中の雪がおこされているところが正好さんのキュウリ畑

 その後、自宅を訪ね、かあちゃん・あき子さんに聞いたところでは「5月21日にキュウリの苗がくるので、連休中にパイプをたてたいのだけれど、なかなか雪が消えないので、今日は稔さん(正好さん宅の隣の人)に頼んでロータリーを運んでもらった。車が通れるように健さん(村の除雪担当、稔さん宅の隣の人)に道に停めてあるロータリーを動かしてもらった」とのこと。そういうわけで私も通れたわけだ。
 こういう次第で、あき子さん宅でお茶のみをしたわけだが、これも配達が完了しているがゆえの余裕。出していただいたリンゴは「雪の中に貯蔵していた」もので、この時期でもぼけていなくて美味しかった。

 つぎに、野々海へ。15日に行けたところをこえて進めたが、間もなく未除雪の地点に行きつく。その先へブルが進んだ形跡はあったが、スノーロータリーの姿は見えなかった。今日は除雪をやっていないようだ。16日朝に除雪作業に従事している人に聞いたところでは、「上に行くと雪が硬くて、なかなか作業が進まない」とのことだった。上っていく途中、平滝の人の田んぼがあるところで、雪の壁にスコップで段をつくって上がり、田んぼの様子を撮影。一面雪の海で、知らなければ田んぼがあるところとはまったくわからない。


 つづいて、イワウチワの開花状況を見るために、滝見線〜古道絶景ポイントへ。絶景ポイント入り口に到着すると、見知らぬ車が…。「いったい誰だろう」と思っていると、複数の人の姿が見える。夜間瀬の人たちが来ているのだ。うち2名の人と一緒にイワウチワのあるところへ。見事に開花していた(「復興への歩み」No.218参照)。

 昼食後、ある人に会いに行くつもりだったが、その予定を変更して、今日の写真整理とイワウチワの開花の様子を掲載した「復興への歩み号外:小滝版」を作成・配布することに。「この時期の古道の観光資源としての活用を」というメッセージに意を込めて、夕刻4時頃に小滝13軒に配布した。

18日(金) 午前中雨の予報があったが、明け方からすでに雨。その後も降ったり止んだりのくりかえし。気温も低い。
 原稿書きなどした後、野田沢に用事があって貝廻坂を上がる。野田沢が近づくと濃霧。その後、菅沢農場を廻ったが、前方がまったく見えない状況。
 10時すぎ、頼之さんのハウスに立ち寄ったが、気温が低いので予想通りシャッターは閉め切られている。しかし、よく見ると、ハウスの後方に奥さんの姿。ご夫婦で水タンク置場の屋根をかけておられた。「ついさっき、シートをまくったところです」とのこと。
 午後はある人と延々とお話しすることに。

19日(土) 今日も気温が上がらない。朝からNo.218のための補充取材でいろんなところを廻る。昼には、震災直後から毎年村に来られ、震災による集落の住環境などの変化を調査・研究されている首都大学東京の市古さんなどとお会いする。
 夕刻、市古さんと一緒に来られた寺社建築の専門家・宮川和工さんに大久保のお堂(下写真)を見ていただく。軒が落ち、大久保の人たちが修復を検討されているものだ。よいアドバイスが得られそう。


 

配達日誌4月20日、21日

 栄村の情報をできるだけ毎日発信するよう、「配達日誌」を1〜2日ごとに更新することにしました。

20日(日) 今日は21日発行のNo.218の仕上げの日。5頁に掲載の斉藤幸一さんの畑の写真に間違いがないかどうかを確認に、朝、北野にむけて出かける。
長瀬(手前)のカタクリ街道で満開状態になっているのが目に入り、這いつくばったりして群生の様子を撮影。
 その後、家の前で苗箱の土詰め作業をされている斉藤幸一さんご夫婦とお会いし、写真を確認していただくと同時に、話題はイワウチワ、カタクリの話に展開。「北野天満温泉の前のカタクリがすごいですよ」と言われ、足は北野天満温泉へ。カタクリの数の多さはカタクリ街道以上ではないだろうか。でも、温泉前を車で通っても、存在をあらかじめ知らないと気づかないかもしれない。せっかく北野の人たちが苦労して世話しておられるのに、“資源”が活かされていないように思う。
 もう完全に「カタクリ・モード」に入ってしまい、笹原の「カタクリの里山」にも行くことにした。笹原もいい。「群生地」というよりも、「カタクリを眺めながら、山道を散策できるコース」と紹介する方がいいのではないかと思う。

山を上がる小道が見えますね。そのそばにカタクリが。

 この結果、「歩み」号外(長瀬・北野・笹原版)=「カタクリめぐり」を急遽作ることにした。
 長瀬・北野・笹原にはこの日のうちに配りたいと思ったが、原稿作成、本紙も含めた印刷で夕刻までかかり、配達は明日へ。

21日(月) 朝から曇天、長瀬を廻っていた9時すぎには雨がおちてきた。以後、終日雨。
 7時半すぎに家を出て、配達を終えたのが4時10分頃、その間、昼食で30分ほど休んだだけで、今日はハードだった。
 途中、不足分の印刷の作業を入れたりしながらの配達であったが、志久見を廻ったときに「史蹟・高札場」という石碑があることに初めて気づいた。ここは江戸時代の志久見村の中心地だったのだ。ちょうど林秀庵に入っていく道のところ。


 午後3時前、平滝にむかうと国道117が渋滞して、まったく前へ進まない。むらの人に尋ねると、「郵便局のあたりで事故」とのこと。迂回路をうまく使って事故現場のすぐ近くへ。あとは少し歩いて、雨の中、現場を撮影。ちょうど事故車両がクレーンで引き上げられるところだった。

 カーブでガードレールにぶつかった自損事故のようで、運転手は現場で警察に事情聴取されていたので、大したケガはなかったのだろう。
 昨日は好天で“すじ播き”の準備をする人などが目立ったが、今日は雨であまり人の姿がなかった。そんな中で、長瀬で大規模コメ農家の中村さんに出会い、「もうすじ播きは終わりましたか?」と尋ねると、「ええ、3分の1は終わりました。なにせ全部で1500枚ですから」とのお答え。個人農家単独で1500枚というのはすごい。
 

配達日誌4月10日〜16日

10日(木) 前回の日誌に書いたとおり、朝はカタクリの写真を撮り直しに出かけようという気持ちになるほど、いい天気だった。11時頃、横倉を走っていた時には保育園のお散歩に出会うほどだった。だが、その30分ほど後から急に気温が下がり始め、お昼過ぎには雨に。そこからは肌寒かった。そんな中、西部、豊栄、水内で55軒を廻る。午後4時すぎ、「今日はもうこれ以上は体力的に無理」と判断し、終了。

11日(金) 5時ちょっと過ぎに目が覚めてしまい、そこから朝食、パソコンでの作業。震災後の栄村の人口動態のデータなどを調べ、メモを書く。なんらかの形で公表するが、「震災で人口が減った」というのが根拠のない話であることがはっきりした。
 その後、まず東部の協賛者宅を廻り、つぎに、笹原、当部、天代、坪野、天地、大久保の各戸廻り。昼食後、中条と青倉を廻る。家に帰った後、5時すぎまで1時間半ほど、朝のメモの続きを書く。
 今日は晴れていて、走行中、窓を閉め切っていると少し暑くなることがあるのだが、窓を開けると風が冷たい。長野市では今日、ソメイヨシノの開花が宣言されたが、栄村の桜は写真のとおり。つぼみはかなり大きくなってきているが、まだ固そう。

 原向で積雪計を設置しているお家がある。今日以前に積雪計を意識して見たのは何日前だっただろうか。せいぜい1週間以内のことだったと思うが、そのときは少なくとも1mはあったはずだ。ところが、今日は40cm以下。雪消えのドラスティックな進展に驚く。

 また、6日に山古志に行った際、途中の十日町市あたりで雪がない道路を走ると奇異な感じがしたものだったが、今日、もはや雪がない国道117を走った後に東部谷に入って雪がけっこうある道路を走ると、なにか違和感を覚えた。我が事ながら、人間の感覚の勝手さのようなものを強く感じた。

12日(土) 午前中は定期通院で病院へ。ついでに、春物や靴の買い物。靴は運動靴(いまは「スポーツシューズ」と言うそうだが)で、履き潰してしまったので買い替え。
 帰路、飯山線と国道403号線の崩落箇所をみたび撮影してきた。今回は千曲川の対岸から。対岸からのほうが道路の陥没状況がよく見える(21日発行予定の本文参照)。撮影場所は国道117と千曲川の間にある田んぼに下りたところ。畦のすぐ下が千曲川で畦に立つのがちょっと怖かった。

 午後、帰り道ということもあって、白鳥へ。白鳥団地(若者住宅)では、土曜日の今日は駐車場に車が入っているお宅が多い。やはり住人の大部分が勤め人ということだろう。
 団地を廻ったのが2時過ぎだったろうか、国道より上の集落を廻り、国道沿いに戻ったのが3時過ぎ。2時過ぎと比べて、車の通行量が断然多い。昼間、飯山・長野方面に出かけて、そろそろ帰りということだろうか。
 夕刻に志久見と雪坪を廻ったが、あるお家で玄関に通じる坂で水を撒いている人に出会った。よく見ると、割れ目をコンクリで埋めて、そこに水をかけておられたのだ。尋ねると、「地震でヒビが入って。一度塗ったんだが、また裂け目が出てきたので」とのこと。地震の傷跡はまだまだいたるところにある。

13日(日) スリリングで楽しい一日だった。
 朝、少し原稿を書いたうえで9時半過ぎに家を出て、横倉の配達へ。今日は日曜日だが、配達は休まない。今日も配達しておいたほうが明日以降、取材時間を多くとれる。
 それでも、やっぱり日曜日。横倉の配達を終わったところで、8日に続いて滝見線−古道絶景ポイントに向かうことにし、知人のK氏を誘う。ユキツバキ、そしてイワウチワの開花状況を見ることが目的である。
 出会えた! イワウチワと。一昨年、落花した後の葉を古道脇で見たが、それと同じ場所に。そして、「足を滑らせれば千曲川へ落下」という崖を下ったK氏が「つぼみがあるよ」と声をかけてきたので、恐る恐る私も下ることに。すごい群生ぶりだ。震災前にスキー場リフト終点裏の崖場で群生を見たことがあるが、それに勝るとも劣らない。野草図鑑には「山地の林や岩場に生える」とあるが、本当にすごいところに生えている。

真下に千曲川が見える

イワウチワのつぼみ
(この「たび」については、「春の花を求めて小さなたび」をすでにアップ)

 その後、長瀬のカタクリ街道、笹原のカタクリの里山などを廻る。
 昼食後、今度は単独で明石の土砂崩れ現場へ。今日は土砂崩れが発生した山の上まで行くのが目的。発生地点まで辿り着いたが、舗装されていない山道で、非常に怖かった。とくに発生地点のすぐ上で積雪行止まりになっていて、車を回転させるとき、すごい崖の上だったので恐る恐る回転。中条川上流の山崩れ地点に行く時よりも怖かった。しかし、現場を見ないことには災害についての議論は空論になる。

明石の土砂崩れ発生地点
      
 4時すぎ、長瀬の配達。今日は計76軒。
                         
14日(月) 朝、出かけたのは9時半より少し前くらいか。まず頼之さんのハウスに行き、その後、野田沢、程久保、月岡を廻る。これでお昼になったが、午前中の配達軒数は59軒。かなり「効率が悪い」。要因ははっきりしている。野田沢でも程久保でも、そして月岡でも、屋外で作業している人が多く、けっこうの時間立ち話をした人が6人。それぞれに収穫の多い会話だった。
 程久保では滝沢三四(みよ)吉(きち)さんの家に配達して車に戻ろうとした時、お堂が解体されているのが目に入って驚いた(下写真)。

 さっそく写真を撮ろうとしたが、カメラの動きが悪く、懸命になっている間に三四吉さんが私のすぐ後ろに。お話を聞いたところ、お堂は「薬師さま」で、地震で土台がずれていたものがひどくなり、新しく建て直すために一昨日と昨日の2日がかりで解体したのだという。以前にお堂の中から取り出した板に「寛永」の文字があるという(その板は保管されている)。
 それ以外にもいろんなお話を聞いたが、それによると程久保は最大時15戸あったという。現在は8戸である。程久保についても、その歴史を調べれば興味深いことがいろいろありそうだ。

 午後は森集落を廻る。計69軒だが、1時間半を要しなかったのではないだろうか。意識的に急いだ面もあるが、出会った人が数人だったことも要因だ。時間帯も作用しているかもしれないが、屋外で作業している人がほとんどいなかったのが大きな要因。野田沢、程久保、月岡と比べると森は「都会」といえる面があるように思う。
 昼休みに「春の花をもとめ小さなたび」をブログにアップ。また、午後の配達後、『村史』を調べ、「坪野上堰について」という小原稿を書く。江戸時代の延宝年間に坪野のむらの人たちが金(きん)22両余を自前で出金して新しい堰をつくったという話だ。最近考えている復興−集落維持・活性化のあり方を考える資料としての考察である。近く公表する予定。

15日(火) 今日は冬と初夏の両方を経験する日になった。午前10時頃、平滝の配達の流れで、野々海池への道を進む。野々海池までの中間あたりまで除雪されていた。路面に除雪の痕跡がみえるようになったと思ったら、前方にスノーロータリーの姿が。そこから引き返し、再び配達へ。


 そして午後2時すぎ、森の役場横を通ったとき、気温表示板が20℃を示す。今年初めてのことだ。3時頃、中野集落を廻っているとき、車の窓を開けていても暑く感じた。
 今日もいたるところで切り干し大根作りを見た。こんなにも多くの人がやっているのに、なぜ昨年まで気づかなかったのだろう。中野集落では、太目の切り干し、さらに大根を長さ8〜10cmくらいに切り、四つ割りにしたものを干している家があった。どのように食するのか、こんど聞いてみよう。
 みなさん、畑作業をしたり、パイプ小屋を組んだり、とにかくよく外で仕事をしておられる。「秋に充分に乾せなかったので」と、小豆を乾している人もおられた。
 会う人たちの挨拶がいつの間にか、「ご苦労さま」から、「いつもありがとう」に変わってきている。
 今日は平滝、箕作、柳在家、切欠、北野、中野で計145軒。
 夜8時前、雨がおちてきた。

16日(水) 5時に目が覚めるが、もう一眠り。6時半に起きて、7時半過ぎに家を出て、頼之さんのハウスへ。トマトづくりの追っかけの詳細は別稿(「追っかけ:頼さんのトマトづくり4月16日」に譲る。ハウスはまだ開いていなかったので、近くの樋口和久さんの牛舎で、息子の大さんに「最近入ったばかりの牛」を紹介してもらう。「おれが10日頃に木曽から買ってきたのが2頭いる」とのこと。震災後に建てられた新しい牛舎にいた。


 トマトのハウスでの水やり作業などを見た後、極野の配達へ。途中、野口から天代に下る道路端で下の写真を撮影中、どこかからかエンジン音が聞こえてくる。少し歩いて探すと、雪の中でなにやら作業中。近づいてお尋ねすると、堆肥づくりとのこと。笹原の人だ。

ここはたしかため池だ。


笹原の人の堆肥づくり作業
 
 極野で23軒廻ったが、外に出ている人はいなかった。標高が高く、山に囲まれて日照時間も短く、田畑に雪が残っている量が多く、まだ外作業という段階ではないのかもしれない。
 複数の家先で種籾の浸水を見る。極野は育苗は共同作業になっているが、浸水作業は各家でやるのだろうか。

 この極野の配達でNo.217の配達完了。
 
 その後、『村史』で調べた「坪野上堰」(17世紀後半に開削)のことを坪野の人に尋ねに行く。坪野の堰・水路をしっかり見たことはこれまでなかった。坪野には上堰(うえせぎ)、下堰(したせぎ)、区画整理時に作られた天代へ下る水路の3本があるとのこと。下堰というのが『村史』では「坪野古堰」と呼んでいる延宝2年(1674年)開削のもののようだ。
 話を聞いた後、水路を見に、一人で集落の山の上へ。山を上りきり、「百番様」というお堂の下のところを流れている水路が「上堰」であることは先ほどの坪野の人の話で間違いないが、そこから上流を私は知らない。当然、田んぼよりも高いところを流れているはずなので下写真に見えるところが水路だと見当をつけて、雪の上を歩き、近づく。水路は土水路で古さがよくわかる。間違いないだろう。水路沿いに辿っていくと、最近、工事をした形跡が見えた。



 上写真が水路だが、青倉の山中の貝立水路でも見られる、深く掘れた土水路だ。
この水路を辿るとき、「水路の上に雪がかぶさっているところを踏むと水路に落ちるぞ」と注意していたが、見事に雪を踏みぬいて水路に落ちてしまった。次の写真が落ちたところ。



 ここまでで正午を廻る。この後、下堰の流れを追いながら軽トラを走らせ、野口へ出る(下堰は野口に出るのではなく、途中で道路をくぐって、東部パイロットの沢の方へ下る)。
 昼食後、野々海に行こうかと考えていたが、どうも極野を廻っているころから右腰が神経痛で痛むので家へ帰ることにする。そして、この配達日誌などを記し、午後4時半になってしまった。
 
 (了)