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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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山口村と八幡宮の存在 ―― 栄村の歴史の覚え書

 

 上の写真は県道秋山郷森宮野原(停)線を志久見から柳在家に入って間もないところで、進行方向右手(西側)を撮影したものです(下地図のA地点あたり)。

 

 

山口村の観音堂
 写真真ん中に赤い屋根のお堂があります。観音堂です。
 柳在家集落には、この他に県道をもう少し進み、関沢一之進さん宅を過ぎたところにも観音堂があります。写真に見える観音堂はじつは山口村という地区の観音堂です。
 この山口村の観音堂の本尊などは、現在は上の写真の左の方に見えるドーム型車庫の中に入れられています。2005年夏の水害で斜面崩壊が発生し、観音堂も流されるおそれが生じたため、新しいお堂がつくられた次第です。
 以上のことは、以前に森下英忠さん(ドーム型車庫の後ろに見えるお家にお住まい)からお聞きしていました。

 

「山口村」とは
 「山口村」という村をご存知の人は栄村の中でもそんなにおられないのではないかと思います。江戸時代から明治初期にかけて存在した志久見村や箕作村のような行政的な意味・位置づけをもつ村ではなく、『栄村史堺編』に収録されている天保9年(1834年、江戸時代後期)に志久見村が幕府役所に提出した文書に次のような記述がありますが、そこで述べられている意味での「村」だと思います。
   「(志久見村の)町並五拾四軒 皆百姓
   外ニ
   枝郷柳在家弐拾九軒、切欠九軒、雪坪拾六軒、塩尻拾軒、

   桧(暮)坪六軒、堀切三軒、野口四軒、仁手野三拾弐軒、

   坪野弐拾七軒、村数十ヶ所、此ハ百姓ニ而余商売之者無御

   座候」
 当時、現在の栄村の千曲川以南には志久見村と箕作村の2つの村があり、志久見村には上の文書で「町並54軒」とされている志久見村の中心地の他に、柳在家、切欠、雪坪、塩尻、暮坪、堀切、野口、極野、坪野の9つの枝郷(えだごう)(志久見本村から枝分かれした地域)があり、さらに、その他に百姓が暮らす小さな集合地(「村」)が数十か所あったというのです。山口村はこの「村」の1つではないかと思われます。(なお、長瀬、笹原、当部、北野などは箕作村に属していました。)

 

八幡宮の存在
 今回、本紙の配達に行った際、雪を片づけておられた森下さんと出会い、新たにお話を聴くことができました。
 元の観音堂の少し上手、杉の林の手前にクルミの木などが見えますが、その杉の木とクルミの木の間の所に、昔、八幡宮があったというのです。
 その八幡宮、明治12年(下写真には「明治11年」とありますが、これは誤記だそうです)に柳在家の現在のお宮が建立された際に合祀されました(現在の柳在家神社には諏訪社と八幡宮が合祀されている)。そして、八幡宮があった場所には八幡宮があったことを示す石碑がおかれました。
しかし、上に記した2005年の水害・土砂災害で石碑は流され、元の位置に戻すのは困難として、観音堂が移転されたドーム型車庫の中に安置されました。下の写真に見えるものです。

 

 

八幡宮は街道筋に位置していた
 先に紹介した志久見村の文書に次のような記述があります。
   「氏神四社 諏訪明神
    四社明神
    熊野権現
    八幡宮
    他ニ 石ほこら枝郷氏神六ヶ所」
 森下さんが教えて下さった八幡宮がこの文書に記されている「八幡宮」なのかどうかは、私にはわかりません。志久見村の歴史に詳しい方に尋ねてみたいと思います。
 ただ、森下さんは「八幡宮があった場所は街道筋だった」と言っておられます。冒頭の写真を小さくしたものを再掲し、そこに赤線を入れてみます。この赤線のあたりに街道が通っていたのです。この街道は上の地図のB地点(いわゆる志久見街道の「大峠」)に通じ、さらにはC点を経て小滝(〜月岡・箕作)に通じていました。また、B地点ないしその少し手前で枝分かれして地図にDと記した暮坪にも通じていました。

 


 いまは村のはずれのように感じられる場所ですが、昔は「はずれ」ではなく、むしろ人が行き交う場所だったのですね。今春、雪が消えたら、少し探索してみたいなと思っています。
 思わず長い記事になってしまいましたが、今後も、村のみなさんからお聞きする話を基にこういう記事を書いていきます。当面考えているのは、柳在家という名前の由来、野々海についての地元の人たちの思い出話などです。いろいろお尋ねにまわることになると思いますが、その折はよろしくお願いします。


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