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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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ひんご遺跡、今年の発掘調査で判明したこと

 ひんご遺跡で、8月24日午後、「報道公開」という説明会がありました。その説明会から、いくつかの報告をしたいと思います。

 

今年の発掘調査は517屐◆岼箙宗遺物の密度は高い」
 今年は6月1日から9月30日までの予定で発掘作業が行われています。今年の発掘面積は517屬如∈鯒と合わせた総面積は約1,800屬任后2爾亮命燭今年の発掘場所のほぼ全体を示しています。

 


 遺跡発掘現場は東西方向に広がっていて、この写真の上方に見える発掘場所の端が西端、昨年発掘した場所の端が東端です。南北の端は今回の発掘場所には含まれていません。北端は畑の下にあると思われ、また南端はフランセーズ悠さかえの前を走る道路の下ではないかと思われます。
 1,800屬箸いμ明僂楼篝廚箸靴討呂修鵑覆紡腓なものではないそうです。しかし、説明にあたった長野県埋蔵文化財研究センターの主任調査研究員・綿田弘実さんによると、「遺構や遺物が出る密度は高い」とのことです。
 縄文中期中頃〜後期中頃(約5,000〜4,000年前)の遺跡で、多くの遺構・遺物からその時代の暮らしの様子がいろいろとわかってくるようです。

 

土層、掘立柱建物、柱穴跡、硬い床面、脚付石皿など
 私は専門家ではありませんので、説明いただいたことをすべて正確に、みなさんに報告するだけの力がありません。強く印象に残ったことを写真とともに示します。

 


 上の写真、発掘場所の側面を撮影したもので、土層を確認することができます。大別すると3つの土層が見えます。一番上は現在の耕土です。2番目に黄褐色の層があります。これは火山の爆発で千曲川が堰き止められた時の堆積物が中心ではないかとのこと。3番目に黒褐色の層が見えます。この層から縄文時代後期の土器片などが多数出てきます。そして、その黒褐色の土層を取り除いていくと竪穴式住居の床部分などが見えてきます。
 説明会前に現場の撮影をした時、青倉集落の高橋咲江さんが丁寧に土を取り除く作業をされていたので(下写真)、「何を目安に土を削り取るのですか」と尋ねると、「色の違いです」と答えて下さいました。

 

 


 上の写真にはいくつも穴が見えます。これは掘立柱(ほったてばしら)建物の柱穴です。地面を素掘りして柱を立てるだけの住居で、竪穴式住居とは異なります。新潟県で多く出土し、掘立柱建物だけで1集落ができているというケースもあるそうです。下写真はその柱穴の1つですが、石が3つ見えます。柱を立てた後、しっかり固定するために入れられた石と思われます。

 


 今回も竪穴式住居跡、敷石住居跡が出ていますが、昨年の記事で紹介したので、今回は省略します。

 


 上写真は主任調査研究員の谷さんが、竪穴式住居の床の部分を示して下さっているところです。雨で流れ込んだ泥を掻き取ると、非常に硬い音がしました。まるで大理石の床のような硬度がある感じです。
 下2枚の写真は脚付(あしつき)石皿(いしざら)というものです。
 左写真が表側で、3面には縁(ふち)が付いていて、手前はそれがなく、掃き出し口になっています。右は裏側で脚がついています。

 

 

 

この地域の特性
 ひんご遺跡は、近現代の長野県と新潟県の境界地域に存在します。出土する土器には火焔型土器のように新潟県で多く出土し、長野県ではあまり出土しないものがあります。他方、新潟県では出土が見られず、長野県ではかなり見られる敷石住居跡が出てきます。
 縄文時代の日本列島は列島均一の文化に覆われていたのではなく、複数の文化圏が存在したのでしょう。その中で、ひんご遺跡が存在した地域は少なくとも2つの文化圏が互いに交わり合うゾーンだったのではないかと思われます。しかも、その交流には千曲川の存在が一枚噛んでいたのではないでしょうか。
 なお、調査関係者に、「ひんご遺跡で暮らした縄文人と、現代の平滝に暮らす人たちとの間に直接の関係はあるのでしょうか」という質問をしてみました。「わからない。ただ、この地域で今のところ、弥生時代の遺跡は出てきていませんね」というご返事でした。

 

<お断り>
 ぎっくり腰でNo.292の配達が遅れています。
 9月6日から村議会9月定例会のため、No.293を早く発行しました。紙面スペースの関係で書ききれない記事が多くあります。ブログもご覧いただけると幸いです。


写真アルバム:退董と入寺

山門の外側から本堂を望む

 

 

 「栄村復興への歩み」No.292で林秀庵の「退董」の儀式をご紹介しましたが、多くの方々から大きな関心を寄せられました。
 そこで、林秀庵にて撮らせていただいた写真で儀式の流れを示す主要なものを選び出し、みなさまにご覧いただくのが望ましいと考え、アルバムを編みました。
 ご覧ください。
 なお、当日、本堂に掲示されていました式の次第と「林秀庵古代史」を撮影したものをアルバムの最後に提示しました。

 

本堂

 

 

退董する方丈さまが旅姿で本堂へ

 

本堂にて三拝

 

三拝を終えられ、草鞋をお履きになって、山門から退出されるまでの過程を9枚の写真で示します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 つづいて、新たに方丈さまに就任される石塚彰雄師の入門の式の様子です。

 

山門のところで、「山門法語」というものを読まれました。

 

 

 

 

 


辞令を手渡されるのは常慶院斉藤一教方丈

 

 

 

檀家のみなさんの姿が見えます。「新命和尚挨拶」の場面です。

 

 

 


退董とは


 草鞋を履く旅姿の老僧がお寺の山門から旅立たれていきます。
 8月11日午前11時すぎ、志久見の林秀庵の山門での撮影です。この直前、そのお顔をクローズアップで撮らせていただきました。

 


 林秀庵の方丈さま、石塚光雄老師です。

 この日、林秀庵ではお盆恒例の「施食会」に引き続き、住職の交替式が行われました。これまでの住職(方丈さま)がいわば「生前退位」されることを「退董(たいとう)」と言うそうです。
 引き続き、新しい住職、石塚彰雄さんの就任の式が執り行われました。
 山門からお入りになり、本堂に上がられた後、曹洞宗の総本山・永平寺からの辞令を受け取られ、林秀庵の住職に着任されました。

 

 

 滅多に拝見することができない儀式です。撮影を許された林秀庵様に感謝申し上げます。


栄村歴史文化館「こらっせ」の開館

 8月6日午前、志久見の栄村歴史文化館「こらっせ」の開館セレモニーが行われました。私は村議として公務で式典に出席したため、式典の模様は撮影していません。
 震災から救出された歴史文書、民具など多数が展示されています。是非、一度、足をお運びください。今後の号で、展示内容を順次、紹介したいと考えています。
 


野々海築堤工事等の写真記録

 ここに掲載する写真は、久保田晋介さん(旧姓は月岡さん、白鳥。現在は津南町羽倉在住)が保存されている写真をお借りして、画像をデジタル処理で復元したものです。
 これらの写真をきっかけとして、野々海築堤・開拓についてのみなさんのご記憶・思い出などを聞き取りしたいと考えています。また、ここに収録した写真以外のものをお持ちの方がおられましたら、是非、ご紹介いただきたいと思っています。
 ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
                                                       松尾 真

 

 

 昭和29年8月、築堤工事完了の直前に撮影されたと思われる写真です。
 元の写真が小さなサイズのものであるため、これが拡大の限界かと思います。お一人、お一人のお顔を確認するのは難しいと思いますが、「これは私だ」、「私の父だと思う」ということがあれば、是非、教えてください。

 

 「栄村復興への歩み」No.289にも掲載したものですが、「私はこんな作業をしたよ」というような思い出があれば、お聞かせください。

 


 「復興への歩み」No.289掲載の「余水吐放水路工事」の写真と一緒に保存されていたもので、昭和29年撮影と思われます。

 

 

 


 いずれも野々海からの水路をつくっているところですね。カーブの具合などから、私も「あそこかな?」と見当をつけたりしていますが、見覚えのある方、おられますか?

 


 上の2枚とともにアルバムに貼られていたもの。
晋介さんによれば、「現場で賄いをしてくれていた女衆。左は白鳥の月岡りん子さんのお姉さんのはず」とのことです。

 


 これもアルバムの同頁に貼り付けられていました。
 右は『水内開拓史』編集責任者を務められた江口一雄氏。左は久保田晋介氏。

 


 これ以降は、久保田晋介さんのご記憶では昭和46(1971)年に行われた野々海大明神に祀る大きな石を運んだ時の写真です。

 


 運搬作業が終わった後の記念集合写真。
 久保田晋介さんによれば、
 前列:左は島田義太郎さん、右は小口哲二さん(横倉、屋号「石屋」)
 中列:左端・広瀬重平さん(森、重信さんの父?)、左から2番目・半藤さん(白鳥)、右から3番目・横倉の屋号「長坂」さん(夏八木さんのお宅)、右端・島田丹右衛門さん(青倉、一松さんの父か?)
 後列:左端・斉藤さん(西大滝)、左から2番目・広瀬一郎さん(森、求さんの父)、真ん中・広瀬喜一郎さん(横倉、屋号「沖」)、右から2番目・月岡勇さん、右端・上倉さん(平滝、現在の「居酒屋野の海」の父か?)
とのことですが、いかがでしょうか。

 


 左から、久保田柳治さん(羽倉)、小林栄市さん(羽倉)、久保田晋介さん。
 羽倉のお二人は水路の請負などで野々海の工事に携わっておられたそうです。

 

 右から2番目は丹右衛門さん。

 

 

 先頭は丹右衛門さんと小口さん(「石屋」)さん。

 

 

 右上端の鉢巻姿は小林武夫さん(白鳥)、手前後ろ向きは晋介さん。

 

 真ん中に座るのは半藤さん(白鳥)。

 

 

 

 

 


小林武夫さん(左)と月岡勇さん。

 

 

 

 


平滝集落で「ひんご遺跡報告会」

 13日、平滝公民館で、平滝集落の雪上運動会にあわせて「ひんご遺跡報告会」が開催されました。
報告して下さったのは長野県埋蔵文化財研究センターの主任調査研究員でひんご遺跡の発掘を現場で指導・指揮された谷和隆さん(下写真)。わかりやすく説明して下さり、平滝区民など約60名が熱心に耳を傾けました。





 ひんご遺跡については、本紙No.264(昨年9月11日付)でも紹介しましたが、その段階ではまだわからなかったことを中心に、私が理解できた範囲でお伝えしたいと思います。なお、専門家による説明は4月23日(土)に長野県立歴史館で開催される講演会・遺跡報告会で聴くことができます。

 下写真は谷氏が報告で「まとめ」として示されたものです。



 敷石住居跡についてはNo.264で書きましたので、「深い住居跡」という項目から後を報告会で示された画像と私のメモをもとに紹介していきます。
(上写真の1行目、「栄村の」は「栄村の」の誤植ですね)

深く掘られた竪穴住居跡
 竪穴住居は「竪穴」という表現が示すように、縄文時代の地表から掘りこまれているものですが、その深さは30〜50cmが一般的なのに対して、ひんご遺跡では1m20〜30cmのものが発見されました。下写真がそれです。このような事例は他には茅野市で1件あるだけとのこと。ひんご遺跡の価値を示す1つのポイントです。



 穴の真ん中に石で囲まれた四角のところが見えますが、これは炉です。
 これだけの深さに掘られた理由として、谷氏は「この地域の寒さ、雪と関係があるのでは」と推察されていました。縄文時代のこの地域の気候は現在の気候と同じものだそうです。

石が込められた柱穴
「まとめ」で「石込め土坑」と記されているのは下写真のように石が込められた柱穴のことです。



 こういう穴が5つ見つかっています。すぐに思いつくのは「竪穴住居の柱の穴」ということですが、5つの穴は屋根がかけられる位置関係にありません。そのことからトーテムポールなどを立てた穴かもしれないというお話でした。
トーテムポールとは先祖の霊を守るために一族が立てるもの。青森県の三内(さんない)丸山遺跡の巨大な柱が有名です。

「生産遺跡としての位置付け」とは



 上写真は粘土の採掘跡として紹介されたものです。埋文センター発行の「発掘だより」では、「縄文時代の地表から1〜1.5m下の白っぽい粘土の地層をめざして掘られた穴」、「穴の大きさは直径1m前後で粘土層の下面まで掘られ」、「地下に堆積した粘土層を追って、すぐ隣に新たな穴を掘ることを繰り返した痕跡もみつか」ったと記されています。
 さらに重要なのは、焼成(しょうせい)粘土塊(かい)も見つかったことです。下の写真がそれです。



 この塊の中に土器の破片が見えます。このことについて、谷氏は、「土器を焼くには粘土に砂を混ぜるが、土器をすりつぶして混ぜることもあるので、それなのではないか」と話されました。遺跡発掘調査で土器を焼いた跡が見つかることは稀だそうです。
「まとめ」に「無斑晶質安山岩」という言葉が出てきますが、当地はそれが採れる地域であり、土器を焼いた跡も見つかったことから、「飯山地域や津南地域にまで配っていた拠点遺跡の可能性がある」とのことです。「生産遺跡としての位置付け」というのはそういう意味です。

「千曲川との関係はいかに」について
 今回は説明を省いた敷石住宅跡ですが、石は他の遺跡では鉄平石(てっぺいせき)と呼ばれる平たく角っぽい石が使われるのに対して、ひんご遺跡では平たく円い川原石(鉄平石よりも厚め)、すなわち千曲川の石が使われています。
 また、発掘終了後、発掘された土器の洗浄作業が埋文センターで行われましたが、その際、長さ1mmくらいの鮭の歯と思われるものが出てきたそうです。県内屋代の遺跡では鮭の骨がたくさん出ています。千曲川沿いに縄文時代の大きな集落が発達したようです。

土偶の不思議



 上写真は「鼻の下が長い土偶」として紹介されたもの。面白いですね。
 ひんご遺跡からはたくさんの土偶が出土していますが、土偶は基本的に壊れた状態で発掘されます。これは保存状態が悪くて壊れたのではありません。「たとえば腕が痛い時、土偶の腕の部分をちぎりとって、腕が良くなるように祈ったのではないか」と推察されるとのことです。
 なお、土偶は、埴輪(はにわ)とは別のものです。埴輪は縄文時代よりももっと後の古墳時代にお墓に入れるものとしてつくられました。

4月23日に県立歴史館で講演会・遺跡報告会開催
 ここまで拙い報告記事ですが、ひんご遺跡の意味の大きさを少しご理解いただけたでしょうか。さらに本格的で正確な報告は専門の方のお話をお聴きするのがいちばんです。いま、3月12日から6月26日までの予定で「長野県の遺跡発掘2016」という展示会が長野県立歴史館(千曲市屋代)で開催されています。とくに4月23日(土)には午後1時30分〜3時40分の間、主にひんご遺跡の報告会と「土偶ってなんだろう?」という講演会が開催されます。
 栄村公民館にお尋ねしたところ、当日、栄村からバスを出す(定員約20名)方向で検討して下さっています。関心のある方、是非、ご参加ください。
 なお、今年も6月から3ヶ月間、発掘作業が行われる予定で、埋文センターでは発掘作業を行なう人を村内で募集されます。「昨年よりもさらに多くの人手が欲しい」とのことです。あなたもやってみませんか。

 

「1月15日の小正月」を守る――秋山郷、屋敷集落と小赤沢集落

 「今から道祖神祭です。」
 1月15日午後3時少し前、秋山郷での配達を終えて、下におりようとしていた私に、地域おこし協力隊の木村敦子さんが声をかけてくれました。たしかに午前中、屋敷集落でどんど焼きの準備が終えられているのを見ています。屋敷3時、小赤沢4時に参加させていただきました。


布岩をバックに炎を上げる(屋敷、午後3時35分)


真っ赤な炎の中に書き初めが舞い上がる(小赤沢、午後4時24分)


 「成人の日は1月の第2月曜日」と法律で定められて以降、小正月の伝統行事「道祖神祭」を1月15日に行うことが難しくなっていますが、小赤沢集落と屋敷集落では「1月15日」が守られています。屋敷のあるおやじさんは「15日でなくすのは元旦を動かすようなものだ」と意気盛ん。他方、お孫さんたちの参加が多かった小赤沢では、「子どもたちが来られるには15日の維持は難しいかも』という声も聞かれました。
 「地域の再生」や「地方創生」が叫ばれていますが、伝統行事を守らずして地域の活性化はないでしょう。せめて長野県だけでも1月15日を休校にしてほしいものです。


元気な子どもたちの姿が嬉しいですね(小赤沢)

屋敷と小赤沢の道祖神祭(速報)



1月15日は小正月。
 祝日法で「成人の日」が「1月第1月曜日」とされたため、小正月の代表的な伝統行事・道祖神祭も15日からずれた日に行われる集落が増えたが、秋山郷の屋敷集落と小赤沢集落ではきっちり15日に行われる。
 今日は秋山に配達に出かけ、帰り際になってこのことを知り、急遽、撮影させていただくことになった。
 1枚目は「どんど焼きと布岩」。こんな写真が撮れるなんて想像もしていなかった。
 
 
  
 2枚目は少しアングルを変えて。
 屋敷集落は午後3時点火だった。

 
 続いて、午後4時点火の小赤沢集落へ。
 
  
 書き初めが高々と舞い上がった。
 高く舞い上がると、習字が上手になる。
 
 
  
 子どもたちは雪の上でおおはしゃぎ。
 後方には苗場山が見える。
 
  
 みかん撒き。この写真のときはお菓子が撒かれている。
 
  
 地域おこし協力隊の木村敦子さんも「年女」でお菓子を撒かれた。

ひんご遺跡、その後

 15日朝、平滝のひんご遺跡の様子を見てきました。



 上写真がその状況です。遺跡に土が埋め戻され、遺跡はすっかり姿を消しています。10月30日に発掘作業が終わった後も続けられていた埋蔵文化財センターの研究員による調査も13日で終わったようです。
 前号で「来春も少し発掘が行われるようです」とお伝えしました。その理由がわかりました。関係者のお話によれば、「発掘の最後になって新しいものが出てきた」のが継続の理由。原形を完全にとどめた土器等が次々と出てきているようです(前号掲載写真参照)。
 でも、「予算がつかないと出来ませんが…」とのこと。
 遺跡発掘調査は予算が確保しづらいもの。県でも予算がつくように努力してもらいたいですが、村にも積極的な対応を望みたいものです。復興基金はまだ残っていると思いますので、その活用なども考えてほしいものです。
 

東部パイロット、原向、天地、坪野を探検する〜11月9日午前の配達日誌〜

 9日の午前中は、志久見、柳在家、原向、天地、坪野、天代で計52軒を廻った。軒数としては少ないが、それには訳がある。
 志久見では集落の概容がわかるように随所で写真を撮りながら廻った。これについてはさらに追加の写真撮影と聞き取りなどが必要なので、後日に記録化する。
 ここでは、その後、柳在家での配達が終わった後、柳在家から東部パイロットに入って以降、平素は入り込んだことがないような道に分け入るということをいろんな所でしたので、その軌跡を記録したい。いちおう訪れた時間的順序にしたがって記録する。撮影地点は地図上に番号で示す。
 この行動の背景には8日夜夜見たTV番組「NHKスペシャル 縄文 奇跡の大集落〜1万年 持続の秘密」から受けた感銘、衝撃があるが、その点については後で述べることにする。

東部パイロットにて
 
 東部パイロットの道を上がっていくと、9日のブログ(「東部パイロットから栄村の四方を眺める」)で紹介した関沢一行さんの畑の様子が少し変わっていることに気づいた。



 前回10月27日に撮影した時は刈った草が積み上げられていたが、今日はそれが畝と畝の間に敷かれ、畑の畝がはっきり見えるようになっている。ここはアスパラ畑を復活されているところだ。また、写真で右手真ん中に緑色が見えるが、ニンニクが葉を出している。ニンニクは秋に植え、そのまま雪の下で過ごさせ、春に本格的に成長させるものだ。

 柳在家の家の方では、雪囲いがすでにされ、先日、「取り壊す」と言っておられた納屋がすでに解体され、もう少し小さめの新しい建物をつくる工事が始まっていた。一行さんの
本気度が伝わってくる。







 東部パイロット内の道からの風景。
 紅葉がいよいよ終わり間際になってきて、いちだんときれい。とくに小雨模様ゆえにいっそう鮮やかさが増しているように思う。
10:25。



 地図,△燭蠅ら進行方向右手を写したものだが、写真中央奥に見える紅葉の樹々がとても気になった。
 10:29。
 このことが次の行動を決めた。
 
 この樹々が並ぶところの様子を見たいと思い、地図△涼賄世ら今まで入ったことがない農道に進んだのだ。


 
 いつもは運転席からちらっと目をやるだけで通り過ぎる。しかし、県道から農道に下りると、結構先まで進めそう。写真右手に見える道。10:33。


 
 どなたかがワラビやタケノコを栽培されているように見受けられる。
 「畑」は平らではなく、傾斜しているように見える。
 10:33。

 
 
 このあたりの樹々が先ほど見えていたものか。
 左手に上り道があり、さらに進んだ。
 
 
  
 もうこれ以上は進めないというところで、軽トラから降りた。
 写真中央に「崖」が切れたところがある。
 そこまで進み、この「崖」の反対側がどんな様子かを見てみた。
 
 
  
 精一杯頑張って撮れた写真はこれ。
 自然の谷(沢)になっているようだ。
 10:36。
 
 地図をよく見ると、この下は天地川が流れる谷になっている。

 
 
 上は「栄村管内図」を拡大したものだが、青色マーカーで塗ったのが天地川。緑色クレヨンで塗ったのは植生界とされ、右側には桑畑、左には広葉樹の印が入れられている(現在は桑畑にはなっていないが)。
 先の写真に見られる「崖」状のものは、桑畑がつくられる際、元の土地が少し低く掘り下げられたことを意味するのだろうか。関係者に尋ねてみよう。また、この「崖」間際の「畑」に次の写真のような水溜まりが見えた。「畑」はあくまでも桑畑用に整備されたもので畑作などの耕地として均平に整備されたのではなかったのではないかと思われる。


 
 下写真は、天地川を覗いた地点付近から県道方向を眺めたもの。
 
 
 
 
天地(てっち)


 
 天地の国道沿いの野沢菜畑とその先の紅葉を望んだもの。地図のC賄澄
 野沢菜畑には収穫作業が始まっている様子が認められた。10:49。
 
 斉藤克己さんの畑(お宅よりも上の山にあるもの)や、天地の入り口から見える樹々の様子などはよく見たり撮影したりするが、左写真の右隅に見える樹々のある林などを観察したことはなかった。
 天地での配達を終えた後、これまで入ったことがない農道に入った。下地図に青色で示したところだ。



 赤色で示したのが上写真の野沢菜畑があるところ。
 青色で示した道は、今春、克己さんがトラクターに乗って出て来られるのと遭遇し、その際、「この奥の畑の耕起を頼まれたので」と言っておられたのを覚えていた。その畑がどのあたりにあるかは知らなかった。
 青色の地点から少し進むと、道は右へ折れている。右に折れないと、赤色地点の写真の右隅に見えていた広葉樹が生える小高い「山」に突き当たる。
 右に折れ少し進むと、畑地が見えた(オレンジ色で塗ったところ)。


 
 結構の広さである。
 今年の作物の名残りとして「荏(え)胡麻(ごま)」の束がいくつか見えた。
 少し近づくと、ほのかにいい香りがする。アロマセラピーが行われる部屋に漂う香りのような感じ。先日、刈り立ての荏胡麻の香りを嗅いだ時は私には強烈すぎるものだったが、今日はほのかな香りで気持ちよい。


荏胡麻:刈ったものを乾し、小さなゴマ状の種を叩(はた)き落とす

 天地は、斉藤勝美さん(克己さんの妻)のお父さんが戦時中・戦後に自力で山を開墾されたところ。東部パイロットのような「山なり開墾」ではなく、畑地として平らにされている。が、山がすべて削り取られたのではなく、畑地と畑地の間に元の山の姿が小高い山(丘)・林などとして残っているのだ。

                               
原向集落・堀切
 つづいて、天地から県道を戻り、野口で3軒の配達をして、原向集落の中心部での配達にむかった。
 長瀬新田で2軒に配達した後、いつもとは異なるコースをとり、農道・旧道を進んだ。地図のっ賄澄3搬膺泙鮗┐后



 緑色のマーカーが長瀬新田から入った農道。赤色は江戸時代の石碑がある旧道(現在は農道として使われている)。青色がいつも通るコースである。
 青色コースの先端にお宮の記号が見えるが、現在は取り壊されて、存在しない。
 お宮の記号の横に家が1軒あるように記されているが、ここに配達した後、この青色の道の先はどうなっているのだろうかというのが私の関心。
 
 まず、緑色で示した道から赤色で示した道にかけて。



 緑色で示した農道から見たもの。
 ソバが刈り取られた様子が見えた。土地がなだらかに傾斜しているように見える。これはちょっと注目点である。



 緑色の農道が赤色の旧道にぶつかる地点の左手にあるクルミの木。11:18撮影。
 間隔をあけて、整然と立っていて、人がクルミの実の採取用に管理している様子がうかがえる。
 写真右に見えるのが旧道である。石碑もこの近くにある。なお、この旧道、右に進むと青色で示した道路に突き当たり、そこで消えるが、昔はこの道が切欠集落まで通じていたと聞いたことがある。
 堀切に入る前にもう1枚。



 クルミの木が植わっているところから来た道を振り返った。
 写真下方で左右に通じている道路が県道である。その県道を挟んで田んぼが見えるが、県道より向こう側の田んぼは階段状(棚田状)につくられている。元の地形が垣間見える。その先の林は長瀬・笹原集落との間にある、等高線が込み入った崖の縁である。
 
 さて、堀切である。



 上写真に見える道路が地図に青色で示したもの。先に赤い屋根の住居が見える。
 堀切は現在、現住1世帯、留守家1軒である。「原向集落堀切地区」と呼ばれるが、お宮が所在したことに示されるように、元々は1つの集落。行政の運営システムを整備するうえで、長瀬新田、当部新田、堀切、登渡(とど)、野口の5つをまとめて「原向集落」としたと聞いている。
 赤い屋根の住居の先には田んぼがあり、下写真に見えるように農道が続いている。私の関心はこの道がどこかに抜けるのかということ。


 
 先に進んでみた。
 道は上写真の奥で左右二手に分かれている。私は右手に進んだ。
 道はすぐに行き止まりになり、下写真のような林になっている。杉の木も見えるが基本的に落葉広葉樹である。そして、緩やかな傾斜地になっている。



 左に進む道は次の写真のような状態で軽トラでは進めそうに見えなかった。地図では道路の存在が記され、私が9月4日、10月20日にソバ畑を見に行った道につながっている。今年はもう無理だと思うが、来春にでも歩いてみたい。


 
 堀切の最後に、この道の分岐点から堀切を眺めた様子を示しておく。


 
 絵になる景色だ。少しアングルが異なるが、水彩画家の田中誠喜氏が描いておられる。
 

切欠のため池
 つぎに、堀切から登渡に進んだ。3軒に配達した後、切欠のため池(切欠堤)にむかった。地図のッ賄世任△襦ここは希少種のシナイモツゴが生息するところとして紹介されている。
 昨年、ここの紅葉が綺麗だったので、「もう遅いかな」と思いながら、むかった。
 
 
写真中央に見えるやや坂になった道を進む

 何枚もの写真を撮ったが、これがいちばんよさそう。
 
 
 この1枚は、下の写真に見える、ため池から切欠にむかう水路のかけ口の上から撮ったもの。



 ここには何度も来ているが、このかけ口をまじまじと見つめたのは初めてのような気がする。
 なんとも小さな流れだが、これが切欠の水田を潤すのだと思うと、なにか不思議な気がする。切欠集落は集落の居住地を貫通する道路そのものが急坂になっていることに示されるように、山肌にへばりつくように存在する。そして、かなり急峻な山肌に棚田が丁寧につくられている。水の確保が最大の課題であったろう。
 このかけ口から始まる水路を辿ったことはないが、それは来春にでも是非、やってみたい。そして、このため池、水路がつくられた歴史的経緯などについて聞き取りをしたいと思う。

 
長瀬新田お宮横手から「戸合(とあい)トド」にかけて
 この後、長瀬新田に戻り、長瀬新田のお宮のところから上がる道に進んだ。



 上写真は地図のγ賄世ら、これから行く方向を見たもの。11:42撮影。家の後ろにこんもりした杉の木の林が見えるが、これが長瀬新田のお宮の「鎮守の森」であろう。そして、その左手に少し高い土地が見えるが、ここに農道が走り、いくつもの畑が広がる。


 
 上写真が長瀬新田のお宮。県道脇から撮影した。
 原向集落には、この他に野口のお宮がある。当部新田のお宮というのは聞いたことがないので、このお宮は長瀬新田と当部新田のお宮という方が正しいのかもしれない。一度、地元の人に尋ねてみよう。
 下はお宮の裏手を撮ったもの。落葉広葉樹が見え、ここから先の畑地の脇に見られるのも落葉広葉樹が多い。お宮の杉の木はお宮の森として植林されたものかと思われる。





 上の写真がお宮の横手から上がった先の農道と畑。この農道は、通称「天代坂」と呼ばれる野口と天代を結ぶ村道に突き当たるところまで続く。そして、その村道を挟んで斉藤幸一さんのキュウリ畑などがあり、地籍名を「戸合トド」という。
 
 この農道沿いの畑、夏に訪れた時、農作業をしていたおかあさんから、「イノシシに荒らされた」と被害の模様を教えられたことがある。だが、その獣害をのりこえて、さまざまな作物がつくられたことがはっきりとうかがえる。いまの時期も冬野菜がいろいろとつくられている。

 
白菜


野沢菜
 
 随所にソバが刈り取られた跡も見ることができる。
 この農道を少し進んだところで、進行方向右手の畑地に歩いて入った。当部新田の関沢可子さんから、可子さんの畑があると聞いていたからである。



 畑を横切って進むと、右写真の地点に辿り着く。下の拡大地図のイの地点である(赤が進んでいる農道。緑色の道は所在を認識しているがすすんだことはない。ロが斉藤幸一さんのキュウリ畑の位置)。



 写真右手に、県道に面している中村さん(長瀬集落)のキノコ栽培施設が見える。
 ここから道が二手に分かれているが、左を進むと、関沢可子さんの家と平塚忠勝さんの家が見える(下写真)。
 
 
 
 
 ここで、先の堀切も含めて、原向の農道を歩んだことから考えたことを記しておきたい。
 私(たち)は、現在の集落の姿を見る時どうしても、舗装され、農耕車以外の普通車も走れる道路を中心にものを見てしまう。さらに付け加えれば、県道沿いに広々と広がる田んぼを中心に原向集落というものを考える。
 「だが、それは違うのではないか」と思ったのである。
 堀切の場合を見ると顕著だが、江戸時代の石碑も見られる旧道の方が、いま日常的に使用する舗装道路よりもはるかに歴史が長い。堀切の藤木さんの畑も、家から見れば少し山の上になる旧道沿いにあり、家のそばから旧道沿いの畑に上がる小道がある。
 当部新田の場合も同じではないだろうか。関沢・平塚両家は県道からは見えない奥まったところに所在し、私が2013年12月から「復興への歩み」の自力配達を始めた時、原向の人から教えてもらうまで、その所在がわからなかった。しかし、前頁の拡大地図に赤色で示した農道も、堀切の上の旧道と同様、相当に古い歴史を有するのではないだろうか。そして、この地域では水田稲作よりも畑作の方が先行し、比較的広い耕地が確保できる台地(それは現在の眼から見れば「山」に見えるのだが)に畑が拓かれ、その台地の下の狭隘な場所に家屋がつくられたとも解せるのではないかと考えるのである。
 率直に言って、この農道に昨年、初めて入った時、「こんな不便なところにも畑があるのか」と思ったものだったが、それは「現在の眼」による誤った感覚・見方だったのだと思う。

 なお、イ地点から農道に戻るとき、下写真のお墓が目に入った。写真に見えるものの左手にもう一つある。関沢家と平塚家のものであろうか。「お墓はむらを見下ろす位置にある」という村落社会学や民俗学の通説通りの位置ということになる。



 
坪野集落への道にて
 農道を進み、戸合トドの斉藤幸一さんのキュウリ畑を見た後、天代坂を下り、坪野に向かった(幸一さんのキュウリ畑の様子については別の機会に触れたい)。



 上写真は、天代坂をかなり下った地点で、坪野にむかう道路が見える様子を撮影したもの。12:11撮影。
 写真手前の天代坂を下りきったところに、天代集落・北野集落方向(進行方向左)と坪野集落方向(右)への分岐点がある。写真に見える上り坂はその分岐点を右方向へ進む道である。
 掲載の地図には坪野集落の中心部分は入っていないが、上写真の道路は入っている。そのあたりを拡大した地図を次に示す。
 
 
 
 拡大地図に赤丸をつけた箇所に、「堰」の記号が記されている。
 その「堰」を撮影したものが下の写真である。
 

 
 三段構造になっているようだが、通常の水量の場合、いちばん上のところで天代川の水はいったんすべて中部電力の取水池に取り込まれる。そして、余水が天代川に戻される。その排水口が上写真の下の段に見える。
 中部電力の取水池の様子は次の写真。



 ここでの取水量は毎秒1,200?。立てられている看板表示よれば、水利権は平成13(2001)年7月に更新されていて、平成41(2029)年3月末までの権利設定になっている。
 この水は何処に行くのか。現場では見えない。地図をよく見ると、水色の破線で隧道が記されている。極野集落にある中電の北野発電所での発電の後に排水された水も隧道でこの地点まで来ており、ここから隧道は長瀬の発電所上の貯水池まで続いている(発電所上の貯水池は原向の田んぼゾーンを走る県道が長瀬にむかって下り始める手前のところで見られる。水はそこから発電所にむかって真っ逆さまに下る導水管に入る)。
 
 私が栄村を初めて訪れた頃、おそらく秋山林道〜村道鳥甲線を走った時のことだったと思うが、沢という沢のほとんどすべてに電力会社の水利権を表示する看板があるのを見て驚いた記憶がある。最近になってようやく河川(水)が誰のものなのか、見直しの議論が進むようになってきているが、電力会社による山村の水の収奪には凄まじいものがあると思う。(さらに言えば、長瀬の発電所は戦前は信越化学という1私企業の発電所であった。化学工場の重要性が飛躍的に増した戦時下の1930年代、この山村は水を、そして人の命を奪われてきたのである。)
 
 
 
「縄文 奇跡の大集落〜1万年 持続の秘密」を観て
 
 「探検」というのはやや大袈裟であったかもしれないが、常日頃はほんの僅かな人しか出入りしないような場所が多いので、必ずしも誇張ではないとも思う。
 実際の行動時も、そしてこの記録を作成のプロセスでも、文中に記した通り、「現在の眼」(目線、捉え方)というものには非常に問題があると痛切に感じる。
 栄村などの山村を見た人が、「どうして、こんな不便な所に人が住んでいるのだろう」と思い、しばしば口に出すが、多かれ少なかれ、私(たち)もそういう誤った感覚から無縁ではない。
 現代の暮らし・社会は大規模生産と大移動のそれであり、どうしても巨大生産設備(それには大規模な圃場も含まれる)や主要道というものを物事の中心に置いてものを考えてしまいがちである。
 
 だが、そういう目線を変えさせるようなことが、いま、栄村で起こっている。直売所かたくりの繁盛ぶりである。
 そこで売られているものの中には、たしかにかなりの規模の農地で栽培されたものもあるが、野菜の多くは、その野菜が育てられた畑を購買者が自分の目で見たら、「えっ! こんな小さな畑でつくられたの?」と思うような、ちっぽけな畑、いわゆるせっつぇもん畑で育てられたものが多い。さらに、秋になって、人気を呼んでいる天然キノコ類やクルミ、山栗などは、まさに平素は誰も人が入らないような山の中で採られたものが多い。栽培もののキノコでも、原木栽培の場合、やはり誰も人が入らないような山の中でひっそりと栽培されているケースが多い。私が9月に極野集落の人がナメコの原木栽培をする山を訪ねた時はまさに“未知の山道の探検”であった。
 目線を変える、転換することが求められているのだと思う。
 
栄村と縄文文化
 縄文文化はこの夏から秋にかけての栄村でのトピックスの1つであった。ひんご遺跡の発掘調査が行われていたからである。
 ひんご遺跡は縄文時代後期(約4,500年〜3,300年前)のものと言われているが、そんな大昔にいまの栄村の地域に人びとが暮らしていたのである。また、原向集落の公民館の近くには長瀬新田遺跡というものがある。火焔型土器が出土していて、約5,500年前のものである。この遺跡の場所は下の写真で、原向公民館の横に「苗場山麓ジオパーク」の水色の幟が立つところの近くである(幟は巻いていて三角巾状にしか見えないが)。



 この写真の奥に見える畑(紅葉の奥に緑色の畑が見える)は、まさに堀切の項で紹介した旧道の脇にあるものである。
 ここに約5,500年前に集落が形成されていたのである。
 
 この約5,500年前の縄文人が、いま原向集落に住む人たちの直接の祖先にあたるのかどうか、私にはわからない。おそらくは断絶があるのではないかと思うのだが。
 ちなみに、「長瀬新田」という地名・地区名の由来となっている新田開発がこの地で行われたのは江戸時代のことである。堀切や登渡という地名の由来は知らないが、長瀬新田、当部新田という地名(地区名)は長瀬集落や当部集落とのつながりを容易に想起させるものである。長瀬や当部の集落は集落そのものの中の耕地面積はきわめて限られている(耕作者のほとんどが長瀬集落の人から成る中尾の田んぼが山腹を走る水路の開削によって開発されたのも江戸時代である)。
 話を戻すが、長瀬新田遺跡の所在が、今回の「探検」レポートで注目した旧道沿いの畑地の近くであることは非常に重要なことを私たちにむかって語りかけていると、私は思うのである。

NHKスペシャルで学んだこと
 このレポートの冒頭で言及した「NHKスペシャル 縄文 奇跡の大集落〜1万年 持続の秘密」を私が観たのはやはり偶然ではない。ひんご遺跡のことがなければチャンネルを選択しなかったかもしれない。
 さて、この番組では、縄文文化への関心がいま、欧米の学界でたいへん高まり、新しいものの見方が生まれつつあることが紹介された。
 縄文文化(時代)は、約1万6,500年前から約3,000年前まで続いたといわれる。1万年以上の長きにわたって持続した文化(時代)なのである。この持続性が注目されているのである。
 私たちは中学校や高校で「世界の四大文明」というものを必ず教えられる。エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明である。
 エジプト文明は紀元前3,000年頃から紀元前332年まで、メソポタミア文明は紀元前3,500年頃に形成され、紀元前4世紀に終焉を迎えたとされる。また、インダス文明は紀元前2,600年から紀元前1,800年の間であり、黄河文明は紀元前7,000年から紀元前1,600年頃の間とされている。縄文文化のように1万年にも及んで持続したものはない。
 ところで、世界四大文明とされるものと縄文文化の決定的な相違は、前者はいずれも農耕文明であるのに対して、後者・縄文文化は狩猟採集文化だということである。
 私などの世代は、学校で「人類史は狩猟採集文化から農耕文明へと進んだ。狩猟採集文化は遅れたものであり、農耕文化こそが文明を開いた」と教わってきたのである。しかし、NHKスペシャルに登場した欧米の研究者たちは、この文明観をこそ、いま、変えなければならないのだと強調する。
 なぜなら、農耕文化は「大地の破壊」、つまり森を拓き、自然を破壊することから始まる、それに対して1万年にも及んで持続した縄文文化は自然と共生するものだということである。
 番組では、縄文文化を代表する遺跡として三内丸山遺跡が紹介され、遺跡からのさまざまな出土品から当時の人びとの暮らしがどのようなものだったと考えられるかを紹介した。
 春は山の恵み、山菜である。夏は釣りで魚を得る。秋は山の木の実(栗、クルミ等)、そして、冬は深い雪の中での狩猟である。狩猟は獣の肉や道具となる骨をもたらし、さらに毛皮が厳しい冬の寒さをのりこえるための衣服の素材となった。(「雪にもかかわらず人びとが暮らした」のではなく、「雪が暮らしに不可欠な豊かなものを与えた」とも言えるだろう。)衣服の原料には他に春〜秋の山の恵み、種々の草類の繊維が使われた。
 こうした自然の恵みの背景には、地球規模での氷河期の終焉、その結果としての落葉広葉樹の森の形成があったとされる。
 縄文文化の人たちは、大陸から稲作文明が伝えられてきても、それを受容せず、この自然と共生する狩猟採集文化を維持し続けたのである。
 私は専門家ではないが、この時代についての啓蒙書などで学んだところによれば、縄文人ではなく、弥生人という別の人たちが日本列島での勢力を拡大し、その結果、縄文文化が終焉のときを迎えざるをえなかったというのが通説となっている。また、これも書物で学んだことであるが、「日本のチベット」などと蔑称された岩手県の山深き地には現代に至っても米文化を受容せずに暮らす地域があるという。また、NHKスペシャルは縄文文化を継承するものとして、岩手県二戸(にのへ)市のウルシ採り職人が紹介されていた。
 「自然との共生」という言葉は最近では頻繁に使われ、しかも安っぽい安易な使い方多く見られるため、「自然との共生」と言うだけでは核心的なことが伝えられない気もするが、開墾などの営為の対極にあるものが「自然との共生」であると言えば、事の核心・本質により近づくことができるかもしれない。
 もちろん、私は縄文時代への回帰の必要性を説いているわけではないし、NHKスぺシャルの制作意図もそういう趣旨ではないだろう。
 だが、私たちがいま、縄文文化から学ぶべことがあることは確かだと思うのである。

栄村の伝統的暮らしの中に脈打つ縄文文化的なもの。それをどう継承するか
 栄村に限られることではないが、山村には現代においても狩猟採集文化が存在する。とりわけ採集文化は山村に暮らす人たちの中にかなり普遍的に生きている。春の山菜採り、秋のキノコ採りなどはその典型である。
 現在の栄村を形成する地域の大部分は稲作文明を受容してきた。秋山郷は戦前まで狩猟採集文化で暮らしてきた。その秋山郷の暮らしを見た鈴木牧之は秋山の人たちを「賢人」と評したことはよく知られている。
 しかし、その一方で、昔の秋山郷の暮らしは「貧しさ」という言葉と共に語られることも多い。
 さて、NHKスペシャルに登場した欧米の研究者は縄文文化を「豊かなもの」と評したが、私たちは現代において採集(・狩猟)を、稲作などの収穫の不足を補うためにやむなく行うものと見てきた時代があり、そして、いま最近においては、山菜採りにせよ、キノコ採りにせよ、かなり趣味的な活動とみる傾向があるのではなかろうか。あるいはまた、採集活動を行う人は高齢者に多く、その活用法(とくに山菜の調理法)に至っては若い世代への継承が徐々に困難になりつつあると言っても過言ではないのではないだろうか。
 
 しかし、そうしたこれまでの流れとは逆の動きが胎動し始めていることもまた確かになりつつあるように思う。NHKスペシャルでここに紹介したような縄文文化特集が行われたこともその証であり、さらには先にも触れたように直売所での採集もの(春の山菜を含む)の大人気もそのことと無関係ではないと思う。
 
 しかし、である。
 いま、栄村の全村域を日々廻っていて、強く感じていることがある。山菜や木の実、キノコなどの採集文化を豊かに身につけている高齢者が住民の大部分という集落が真っ先に「消滅」の危機に瀕しつつある現実があることである。最も代表的な存在は五宝木集落であろう。また、今回、「探検」して廻ったゾーンも衰退傾向を否み難いところである。
 10月中旬、私は五宝木の山田せきさんに五宝木の共有地を案内していただき、山ブドウを採らせていただいた。せきさんは、山ブドウを採っている最中も、帰りの車に乗ってからも、「いいゼンマイが採れるのはあそこだよ。ワラビはあっちだ。」と、私にしきりに語りかけられた。そこには「この豊かさをなんとか引き継がせたい」という強い思いが感じられた。
 その私はいま65歳。私が継承者になるなど、到底困難なことである。しかし、五宝木の豊かさを次世代に継承させていく取り組みをなんとか工夫したいと思っている。
 それは東部パイロットや原向、坪野などの豊かな自然をめぐっても思うことである。
 その第一歩が「探検」だと思っている。
 村のとくに高齢の方々からいろんなお知恵を是非、お貸しいただきたいと願う次第である。