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栄村復興への歩み
2011年3月に震度6強の地震で被災した長野県栄村で暮らす松尾真のレポートを更新しています。

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東北行きの報告

 豪雪災害の最中、あまり「のんびりした話」をするような状況ではないですが、26〜28日の3日間、東北に行ってきた報告のレポート第1弾をお届けします。
 今回は、過去2回(7月、11月)のように東北の被災地各地を巡るのではなく、大船渡市三陸町越喜来字崎浜というところだけを訪れました。復興への地区独自の取り組みがされているからです。写真が多く、ページ数が多くなりますが、ご覧ください。


崎 浜 報 告

 1月26、27、28日の3日間、岩手県の崎浜に行ってきました。26日と28日は移動時間が大半でしたので、実質的な崎浜滞在は1日強にすぎませんが、多くの収穫が得られた旅でした。

岩手県地図

 崎浜を訪れたのは3回目ですが、過去の2回は東北巡りの中で、ほんの短時間、立ち寄っただけ。それに対して、今回は訪ねる先を崎浜だけに絞っての訪問でした。崎浜を訪ねたのは、この地区が、大船渡市三陸町越喜来(おきらい)字(あざ)崎浜という1地区単独で「崎浜地区復興会議」という組織を立ち上げて、住民自ら復興計画づくりを進めているからです。このような地区単独の復興会議というものは他にはあまり聞きません。
 その復興計画づくりの内容そのものについては別稿で改めて詳しく報  告したいと思いますが、今回は崎浜の人たちからお聞きしたことで印象的な話と、崎浜の素晴らしい景色をお伝えします。

※崎浜の地図 以下の地図は、昭文社発行『東日本大震災復興支援地図』から 

大船渡市全体図 
 

越喜来地区、崎浜の地図



● 「長い揺れの地震は必ず津波がくる。地震があったら必ず高台に避難することを当然のこととしてきた」
 崎浜は約220世帯、うち津波で被災したのは46世帯ですが、犠牲者は10名でした。他の地域と比べると、犠牲者は少ないといえます。10人のうち2人は高齢で避難できなかった人。残り8人は、一度は助かったにもかかわらず、一度目の津波の後、様子を見に戻って二度目の津波に巻き込まれた人たちです。
 崎浜地区復興会議の代表・掛川秀邦さんは、つぎのように話しておられます。
「昔から、長い揺れの地震の後には必ず津波が来ると言われ、地震があると必ず高台に避難することを繰り返してきた。だから、今回もすぐに避難したので、犠牲者が少なかった。」

 そして、犠牲者が大量に出た地域について、「海を知らない人が大勢住むようになったからだ」と指摘されています。
 
 掛川さんは、この話と同時に、「漁港のすぐ近くに、海を眺めながら漁師が集まれる施設を建てたい。資金集めに知恵を貸してほしい」とも話されていました。崎浜でも、津波で流された住宅の再建は基本的に高台で行われますが、漁師・漁業の地域として「海を眺めながら」の暮らしをあくまでも続けたいという気持ちなのです。たしかに、漁師という仕事は海を眺めてこそ成り立つものです。高台から車で通勤してきて、さっと舟にのるというわけにはいかないでしょう。
 
 東日本大震災から約4ヶ月後の昨年6月25日、国の復興構想会議から「復興への提言」で「減災」という考え方が提起されましたが、その後の国や関係県の実際の動きを見ると、「防潮堤と高台移転」の「2点セット」の話のみが先行していて、「減災」という考え方の具体化がほとんど見られません。せいぜい、学校教育等への避難に関する指導の導入くらいではないでしょうか。
 ところが、崎浜の漁師さんたちは、「減災」にとどまらず、津波災害をのりこえて、豊富な恵みをもたらしてくれる海との共生、そして、いわば自然災害とうまく付き合っていく暮らし方を実現していこうとされているのです。東日本大震災被災地、とくに三陸沿岸地域の復興の追求すべき方向性がここに提起されていると、私は思います。


素晴らしい景色

 昨年7月に崎浜を偶然訪れた時にあまりに美しい海の景色に魅せられ、二度、三度と訪れることになったのですが、今回は2日にわたって訪れたことから、面積が広大な崎浜地区のさまざまなところを廻り、崎浜漁港近くの海の景色だけでなく、美しい景色を随所で見ることができました。何枚かの写真をご覧ください。


小壁漁港から長茂崎、吉浜湾を望む

 
同じく小壁漁港から。吉浜湾の先に太平洋の広がりが望まれる


半島の最先端・首崎(こうべさき)から越喜来湾、綾里湾の湾口を望む
 

首崎灯台


首崎灯台近くの海岸線絶壁
 
 以上はいずれも27日撮影ですが、28日の朝、さらに驚くべき景色を見ました。崎浜には烏頭(うどう)という集落があります。仲崎浜、東崎浜、大平(おおだいら)の3つの集落が越喜来湾に面する側にあるのに対して、烏頭は吉浜湾の面する側にあります。先に紹介した「小壁漁港から長茂崎、吉浜湾を望む」という写真に写っている場所のもう少し左手はつぎのような光景です。

 写真中央やや左の上方に、畑地状のところが見えます。木が3本立っています。烏頭集落のいちばん海に近い部分です。この場所から低い台地が海にむかって突き出ていますが、その台地の裏側には海が切れ込んでいます。
 

 こちらがその海が切れ込んでいるところを撮影したものです。

 この切れ込んだ部分をさらに2枚の写真でご覧ください。



 上が海が切れ込んですぐのところ、下はいちばん奥の様子を撮影したものです。

 スカンジナビア半島のフィヨルドを紹介する写真で見たことがあるものとよく似ています。フィヨルドは氷河の浸食作用でできた地形ですが、波の浸食作用で生まれた三陸のリアス式海岸はそれに勝るとも劣らない美しいもので、烏頭のそれはリアス式海岸の典型といってよい素晴らしいものです。


三陸鉄道南リアス線に注目

 27日夜、岩手県宮古市にいる知人と電話で話しました。その時に話題になったことの1つが三陸鉄道のことでした。

赤:北リアス線青:南リアス線

 三陸鉄道とは、三陸海岸沿いに走る第3セクターの鉄道で、1984年、旧国鉄による赤字路線の廃止をうけてスタートしたものです。北リアス線(久慈〜宮古)と南リアス線(盛岡〜盛(さかり))の2線で、北リアス線と南リアス線の間にはJR山田線があります。三陸鉄道、JR山田線のいずれも東日本大震災で大被害をうけ、現在は北リアス線の久慈〜陸中野田間、宮古〜小本間のみが運行しています。28日に見た地元紙の報道によれば、4月に陸中
野田〜田野畑間が運行再開するようです。南リアス線はまだ全線不通で、三陸鉄道株式会社では来年春にも全線での運行再開をめざしています。
 知人と話になったのは、もともと赤字に苦しんできた三陸鉄道を今後、どのようにして維持することができるのかということです。

 私は7月にはJR気仙沼線の陸前高田駅や大船渡駅が完全に消えてなくなっている様子を、また11月にはJR気仙沼線が各所で跡形もないような状態になっているのを見、さらに新聞報道でJRが南三陸町、陸前高田のあたりでは鉄道の再建ではなく、バス路線への転換を構想していると読んでいましたので、JRよりも資本力がはるかに小さくて弱い三陸鉄道の再建は絶望的かを思っていました。
 しかし、今回、崎浜を訪れた際に、南リアス線の三陸駅や甫嶺駅などを見て廻り、駅は健在で、かなりの部分に線路も残っていることを見て、三陸鉄道の再建が膨大な費用を要するにもかかわらず、三陸沿岸地域の復興と再生にとって1つの戦略的なカギになるのではないかと思うに至りました。

 まず、三陸駅、甫嶺駅などの写真をご覧ください。
 
三陸駅(三陸町越喜来)


三陸駅のホームと線路


甫嶺駅から南方向を見る


三陸駅と甫嶺駅の中間の泊地区で(三陸駅方向)


三陸駅と甫嶺駅の中間の泊地区で(甫嶺駅方向)

 崎浜−三陸沿岸地域の復興−再生は、今後、崎浜地区の復興計画づくりの紹介とあわせて詳論していきたいと考えており、その中心には小規模漁業、養殖、水産加工の6次産業的発展が据えられると思いますが、いちばん大事なことは“漁村らしい暮らし”の価値の再評価にあります。栄村の復興あるいは村づくりについて、“むららしい暮らし”の価値をくりかえし強調してきたことと軌を一にする認識・議論です。
 なによりも地元の人たちが“漁村らしい暮らし”を大事にし、その再興に全力を挙げていくとともに、日本全国の人たち、さらには海外の人たちが崎浜−三陸を訪れて、その“漁村らしい暮らし”とそれが育てる素晴らしい景観を心ゆくまで堪能する機会をたくさん創り出すことが求められます。
 崎浜でこんな話を聞きました。天然アワビのことです。
 11〜12月が漁期だとのことですが、崎浜の磯で天然アワビがたくさん採れるそうです。いいものは1kg1万円の値がつくそうで、腕のいい人は3時間ほどの漁で4〜50万円を稼ぐどうです。平素は会社勤めの人も、解禁の時は会社を休んでアワビ採りに精を出します。
 アワビ採りは漁業権なしでは密漁となり、処罰の対象ですが、漁業権を持つ地元の人たちが「体験」の機会を都会の人たちに提供するのには問題はないでしょう。
 崎浜は古来、非常にいい漁場で、かつては日本の3大漁場の一つに数えられたほどだと言います。そのため、古代から人が住み着いたようで、至るところに遺跡があり、お話を聞いた人などは子どもの頃、鏃(やじり)などを掘り出して遊んだといいます。アワビ漁などの漁業体験、古代以来の歴史、このレポートで紹介した素晴らしい景観、首崎灯台などへのトレッキング、そしてとても美味しい地元で獲れた魚料理いっぱいの食事。これだけ揃えば、海版の“むらたび”ができます。
 
 そこで提案です。
 三陸鉄道を早期に全線再建し、三陸鉄道を基軸にすえて、三陸の漁村を訪ねる〈三陸むらたび〉を戦略的に展開します。
 私も三度、この地域を訪れましたので、東北新幹線などが通る岩手県の内陸部から三陸沿岸までは交通が不便で車で1時間〜1時間半ほどかかります。仙台から沿岸沿いで来るにはJR線が再開しても、大船渡あたりまでは少なくとも2〜3時間はかかるでしょう。しかし、岩手内陸部からはシャトルバスなどを運行すれば、旅人一人一人の負担はあまり大きくならないでしょう。
 いちばんの問題は、全国各地から三陸近辺までやって来るのに要する経費が膨大になることです。とにかく日本の公共交通機関の運賃は高い。そこで、JRには東日本大震災復興支援として、三陸の旅にやって来る人は「日本全国どこからでも、三陸最寄りの新幹線駅まで往復1万円(あるいは2万円)」という特割切符を発売することを求めたいと思います。
 「被災者の住宅再建もままならない状況で、観光どころではない」という意見もあるだろうと思いますが、ここは発想法を逆転して、観光の条件を整えることから復興の途を拓いていくことを提案したいと思うのです。
 私が27日、28日の宿泊でお世話になった民宿は、泊という地区の少し高いところにありますが、それでも津波がお家の2階の天井まで入ったそうです。しかし、2千万円以上をかけて2ヶ月で復旧・営業再開されたとのこと。崎浜には被災しなかった民宿もあります。現在は復旧作業員の人たちがたくさん泊まっておられます。
 
 私は浮ついた考えで、この提案をしているのではありません。
 文明の大転換、そのための学びの旅という戦略的思想をもっての提案です。
 かつての私もそうでしたが、三陸の漁村や栄村のような山村を都会の人間が見ると、「何でこんな不便なところに住んでいるの?」と思ってしまいます。そこに戦後高度成長以降の日本社会がはまりこんだ陥穽(かんせい)(おとしあな)があります。自然と共生し、自然と向き合う暮らし。それが人間の暮らしの原点であり、土台です。これをいまの日本社会は失ってしまっている。これでは、どんなに科学技術を駆使しても巨大災害に対応できないし、エネルギー危機や、グローバル経済の波浪にも対応できません。
 いま、都会人は“むら”を訪れ、人間の暮らしの営みが何たるかを学び直すべきときなのです。それと震災復興支援を一体のものとして展開していくのが〈三陸鉄道の旅〉なのです。
 
 今回の報告は以上です。


<後記>

 26日朝、村を出発する時、すでに車が埋まるほどの大雪になっていましたので、栄村の雪を心配しながらの東北の旅でした。
 28日は、十二峠越えを早い時間にしたいと思い、崎浜から約670kmを高速でぶっ飛ばしてきました。かなり緊張しての運転で、すっかり肩が凝りました。
 岩手県では、沿岸部から内陸部に向かうのに時間がかかります。今回は大船渡市から国道107号線〜397号線を経由して奥州市水沢に出ましたが、山の中のカーブだらけの2車線の1本道です。
 その国道397号線の随所に工事現場が見えました。災害復旧工事ではありません。トンネルと橋で直線的な道路に変えようという大工事のようです。建設中の橋脚の様子をご覧ください。

下に見えるのが現在の国道397号線です。
 
 今週いっぱい大雪が続きそうです。
 お互いに豪雪に負けず、頑張りたいと思います。             


東北の旅報告

今日は旅の報告とはいえ、ちょっと変わった写真から始めます。

 私が東北を廻った時に購入した地元紙の紙面です。「河北(かほく)日報」は仙台市に本社がある東北地方全域を対象とするブロック紙です。「河北日報」という名前の由来は、河北新報社の説明によると、つぎのとおりです。

題字の「河北」は、福島県の「白河以北」を意味し、東北地方を表現している。明治維新以来、東北地方は「白河以北一山百文」と軽視された。一山百文とは「一山で百文の価値しかない荒れ地ばかり」という侮蔑的な表現だ。これに反発心を抱き、あえて「河北」を題字とし、「東北振興」と「不羈(ふき)独立」を社是としたことが河北新報のルーツである。
(『河北新報のいちばん長い日』より)

 また、岩手日報は言うまでもなく岩手県内で発行されている地元紙です。
 15日から18日の4日間、欠かさず地元紙を買い求めて読みましたが、「東北の被災地のことは地元紙を読まないと、わからないな」というのが率直な感想です。
 
 写真の左上に見える「野田」というのは三陸沿岸の岩手県野田村のことです。震災前で人口4千人強の村。岩手県の三陸沿岸地方の中ではかなり北の方で、青森県に近く、古くから製塩が盛んだった海と山の村です。

●東北の各市町村では復興計画の策定が進んでいます
 野田村では11月7日に復興計画が決定され、公表されました。
 復興計画の策定に先立って、5月に「復興計画に係る住民懇談会」が各地区で開催され、6月10日に「復興基本方針等」を全戸配布、そして6月に村民アンケート調査と中高生アンケートが実施されています。6月から10月にかけて復興計画策定委員会が4回開催され、9月には再び「住民懇談会」が4日間にわたって開催されました。
 宮城県の石巻市、気仙沼市、南三陸町、岩手県の陸前高田市、大船渡市などの復興計画も発表されています。


東北に学び、復興計画づくりを
野田村の復興イメージ図

 東北の各市町村で復興計画が既に策定されているのは、「東北が栄村よりも被害が大きいから」というだけではないと思います。やはり、「自分たちのまちを絶対に復興させるのだ」という強い気持ちを行政と住民の双方が持っているからではないでしょうか。
 私たちも、東北各市町村での復興計画づくりの手法などを学び、栄村の復興の道筋・課題を明確にしていかなければならないと思います。
 

東北の旅報告


 ちょっと日が経ってしまいましたが、15〜18日の東北の旅の報告第2回目です。
 この景色、みなさん、覚えておられるでしょうか?「月刊栄村」8月号の表紙になった要谷(ようがい)漁港の11月17日の様子です。
 前方に見える山が色づいているのが7月との違い。この日は風が強く、海は防潮堤の内側でもかなり波立っていました。


 この船の名前は「寿丸」。津波で対岸の港の流されたのを「アラキ・ヒデカズ」さんが回収してきたもの。7月に見たときは修理中です。それがこの日は海に入れて係留されていました。アラキさんにはお会いできませんでしたが、毎日、元気に漁をされているようです。

 もう1隻、紹介します。
 この港で一番大きな船。船尾には「浅八丸 平塚港」と書かれています。神奈川県平塚からごく最近、贈られてきた元釣り船だそうです。この船で作業されていたのは河野勇さん(下の写真の人)。いま、船籍書き換えの手続き中で、養殖作業用の船として使う予定だそうです。

 小さな漁港‐漁村集落はどこも元気です。栄村の集落の人びと漁村集落の人たちの暮らしの営みには共通点が見られます。
 共に、自然を相手に、長年培った知恵と技で、震災に負けない農、漁の営みが力強く営まれているのです。ここに震災復興への力をはっきりと見ることができます。

河野勇さん

●三陸沿岸地域の復興をめぐる問題 

この要谷、前回紹介した旧三陸町越喜来(おきらい)地区崎浜、三陸沿岸にはたくさんの漁港‐漁村集落が点在しています。岩手、宮城両県の三陸沿岸には3.65〜3.80kmごとに1漁村が立地しているそうです。栄村で山と山の間に集落がいくつも形成されているのと似ています。

 これらの漁村集落のある地域は、しかし、栄村と違う点が1つあります。「平成の大合併」で石巻市、気仙沼市、陸前高田市、大船渡市などに吸収合併されていることです。
 いま、東北の各市では「復興計画」がすでに策定され、公表されています。それを見ると、漁村地域の人たちの努力によって「漁村の復興」という項目も見られるのですが、やはり市街地中心の復興計画になっています。下手をすると、「復興」を契機として小さな漁村集落が切り捨てられかねません。防潮堤の再建、国道・県道の整備、集落の高台移転のための土地造成などを考えると、数百億円のお金が必要になるかもしれません。「過疎の進む地域にいまさらそんな巨額を投ずる必要はない」という圧力がかかってくる危険があるのです。

 越喜来(おきらい)地区などは地区で独自の復興委員会を結成して、地区の意見をまとめて、大船渡市と協議、「地区・地域ごとの復興推進組織を設置する」ことが市の復興計画に明記されるようにしました。
 農村と漁村の違いはありますが、共に山間地にある小さな村・集落(三陸沿岸の漁村集落は海岸線ぎりぎりまで山が突き出ている「山村」でもあります)。そういう被災地同士が手をつなぎ合って、復興への歩みを進めていくことが必要だと思います。
(栄村では集落懇談会が始まっていますが、栄村の復興計画をめぐる問題は次号で取り上げたいと思っています)


号外 東北巡り日記1

 11月15〜18日の4日間、7月に続いて2度目の東北被災地を廻る旅に出た。
 以下の記述に出てくる地名の場所がわかるように地図を掲げておく。


(注:クリックで拡大します)


<11月15日>

 朝8時過ぎに村を出発、川口インターから関越道に入り、関越道→磐越道→郡山JT→東北道→仙台南部道路・東部道路→三陸道で石巻に午後3時に到着。

* 磐越道〜東北道
 新潟・福島県境付近は紅葉が美しい。ただ、栄村と比べると、紅葉している広葉樹林の割合が劣り、常緑針葉樹が比較的目立つ。
 東北道を郡山から仙台南まで走ったが、沿道の山々は広葉樹が少ないせいか、紅葉が綺麗というところはなかった。
 東北道で震災本復旧の工事が始まっている。応急復旧は震災直後に行なわれたが、今回は本復旧である。工程表を見ると、来年12月までの1年半近くに及ぶ大工事だ。


 
* 石巻
 7月は市内の交通信号がすべてダメで警察官による手信号だったが、すべて復旧していた。尋ねてみると、10月になって復旧したとのことだ。
 石巻駅・市役所周辺の状況はあまり変わっていなかったが、市道と思われる道路がいっさい本復旧工事が行なわれていない。

 県道240号線(石巻女川線)の正面に門脇小学校が見える地点を再訪した。
 全体としては7月とあまり変わっていなかったが、道路が再舗装されている(仮舗装と思われるが)ことが大きな変化であった。
 また、日本製紙の工場が9月から操業を再開し、工場の煙突からもうもうと煙が出ているのは印象的だった。周辺の住宅地であった一帯には復旧の陰すら見えないのと対照的である。

 この地域にあるクルマのガレキ置き場にはほとんど変化が見られず、ガレキと化したクルマが相変わらずうず高く積み上げられている。
 
 
15日午後4時すぎ。

 正面に見える3階建ての建物が門脇小。
 7月19日の同一地点の様子は右のとおり。青い重機の向こうに見える家はそのままあったが、手前の3軒はすでに取り壊されたようだ。


日本製紙の工場
 
 この近くに石巻市の看護師寮がある。7月は玄関付近が水に浸かっていて、中に入れなかったが、今回は中の様子を見ることができた。

 
11月15日                   7月19日
建物周辺の水が引いていることがわかる
 
 
看護師寮の室内の様子
 建物そのものは内部を改修すれば使用可能なように思えたが、地盤が沈下している可能性はある。

  
クルマのガレキ置き場(左が11月15日、右は7月19日)


* 石巻漁港

 東北の石巻は栄村よりも日没が早く、午後4時半にはもう相当に暗くなった。そういう中で石巻漁港に行き、7月に見たところをチェックしてみた。

  
沈下した岸壁を嵩上げし、復旧させたところ。7月の様子は右の写真
 この復旧箇所のすぐ横手には、沈下したままのところが残っている(下の写真)。


 7月に防潮堤の内側に打ち上げられていた漁船1隻がそのままの状態だった。

 
 漁港で煌々と灯りをつけている漁船があり、漁師さんがいたので声をかけてみた。底引き網漁船だそうで、いまはカレイなどが獲れるとのこと。「この船はどこかから新たに手に入れたのですか?」と尋ねてみると、「仕事していたので助かった船だ」という返答。私が「?」という顔をすると、「漁に出ていて、助かったんだ」ということだと教えて下さった。たしかに、書物などで、過去の三陸大津波でも漁に出ていた船が津波後に帰港し、復興の柱になってという話を読んだことがある。

 
 この漁船のすぐ前の通りには、かなり大きな、操業中の鮮魚取り扱い店がある。「魚屋魂 蠧盡札献礇僖鵝廚箸いμ樵阿澄だが、水産加工業の施設等のほとんどは震災後のままで、復旧できていない。

 
 また、この漁船の周りや港の通りには鳥がいっぱい。鳴き声からすると、ウミネコではないかと思われる。

 最後に港の夕暮れの美しい風景を1枚。


 石巻に着いたのは午後3時頃だったが、風が冷たい。夕刻6時を過ぎると、「冬だ!」という寒さになった。17日に行く予定の宮古の予想最低気温は0℃だ。タイヤは冬用に履き替えてきたが、…。
 石巻の宿の駐車場で並んでいる車のナンバーを見て、驚く。函館ナンバー、札幌ナンバーがズラリ。復旧工事に来ている人たちの車だ。

号外 東北巡り日記2(11月16日)

 <11月16日>
 朝6時起床。朝食を食べられるところを探すのに一苦労。結局、8時前に石巻を出て、国道398号線で女川へ。女川を少し見た後、398号線をさらに進み、雄勝町(現在は合併で石巻市の一部)で「OH!GUTS!」という漁師さんが立ち上げた合同会社の事務所を訪ねる。
 その後、398号線をさらに進み、北上川を渡り、南三陸町へ。途中、北上川に架かる橋を越えたところで、津波に襲われた田んぼのごみ拾い作業をしている農家の人たちと立ち話。
 その後間もなく、太平洋岸に出て、398号線をさらに進み、45号線へ。南三陸町に入り、7月に立ち寄ったガソリンスタンド(震災直後から営業)で給油し、志津川中学校グランドの仮設住宅へ。仮設住宅の自治会の世話役をやっておられる鈴木さんという人からさまざまな話を聞く。

 コンビニで昼食を購入し、車内で食べた後、南三陸町の馬場中山という地区を訪れる。2週間ほど前にNHKスペシャルで取り上げられた地区だ。ここで住民が自力で開削した「未来道」という道路を見学。また、漁師さんたちが自力で購入し、北海道・函館から回送してきた船「福福丸」も港で見、沖合でタコを獲ってきた漁師さんと立ち話。

 その後、45号線で気仙沼に向かうが、途中で日が暮れはじめた。気仙沼に泊まりたかったが、ホテルに空き部屋がなく、結局、気仙沼から1時間かけて一関まで出て、投宿。到着は午後6時過ぎだった。


* 女川
 女川町は今回が初めてだが、町役場がダメになり、臨時に設けられている役場まで行ったが、これがプレハブ。これにはちょっと驚いた(翌日訪れた大槌町の臨時役場もプレハブだった)。


プレハブの女川町仮設庁舎        写真右側の建物が元の町役場


女川町の港に面した平地部はすべて壊滅

 女川町から旧雄勝町に向かう途中、展望台がある。「地割れ危険、立入禁止」だったが、見に行った。


 まず、展望台にある地図(左)。この展望台から見た女川町の市街地が右の写真。

 展望台の地図に書かれている「北防波堤」「南防波堤」は跡かたもない。しかし、この展望台からの眺めは最高だ。


 女川の街を見ると、その中心部はほぼ壊滅の状態。その復旧もままならない状態の中で、こういうことを言うと叱られるかもしれないが、この展望台を修復することはさほど難しいとは思われない。この景観を活かし、石巻〜女川(〜南三陸町)の復旧・復興支援ツアーを呼び込み、少しでも町におカネが落ちるようにするなどの策があってもいいのでは、と思った。


* OH! GUTS!

 OH! GUTS!がある旧雄勝町は女川町を通って行く。石巻市の飛び地の形になる。「平成の大合併」の時、原発交付金がある女川町だけが石巻市との合併に応じなかったということのようだ。


 OH! GUTS!の事務所は、思った以上に小さなプレハブだった。代表の伊藤浩光さん(50歳)に話を聞いた。仲間は20人ほどいるそうだ。震災前から漁業を6次産業化しなければならないと考えていたそうで、今回の被災を契機に実行に移したものだという。


伊藤さん(右)と事務員さん

 いま取り組んでいる事業は、カキ、ホタテ、ホヤなどの養殖に支援者が一口1万円を投じるというもの。ただし、これは「投資」ではなく、来年ないし再来年に収穫されるものを前金払いで予約するものだ。支援者は「そだての住人」として「住民登録」される。そして、カキの場合であれば、今年、タネつけしたものは再来年に収穫され、「そだての住人」に届けられる。もちろん、一定の利益がOH! GUTS!に入る。こうして、ゼロ、いやマイナスからの出発とならざるをえない養殖事業の開始を可能にするわけだ。「そだての住人」は現地を訪れて見学したり、タネつけの体験をしたりする。私も早速、一口分納入してきた。カキを選んだので、再来年、栄村に美味しいカキが届けられるだろう。


ホタテ養殖の網の準備

 先週は愛知県の高校生35人が漁業の体験学習に訪れたそうだ。1泊2食で3,500円という破格に安い料金で受け入れ。宿舎は事務所裏の民家と事務所横のプレハブ棟の2階。
 将来的には、さまざまな水産加工品づくりもやっていきたいと夢は大きい。
 栄村でいえば、青倉米の直売や農業体験、さらに“むらたび”をワンセットにしたような取り組みともいえるのではないか。


雄勝町の美しい海

 これまでの漁業、漁村にはあまり見られない新しい試みだけに、事は簡単ではないようだ。地域の中でも必ずしも全面的な理解が得られているわけではないという。それでも伊藤さんは「進むべき道はこれしかない」と力強い。
 今後、OH! GUTS!の試みと栄村の間でさまざまな交流を進めていければいいな、と思う。
 
 ここで、雄勝町で見た驚くべき光景を1枚。下の写真だが、建物は「石巻市雄勝公民館」。その屋上に津波で運ばれたバスがのっているのだ。




* 新北上川橋の近くで

 雄勝から国道398号線で南三陸町に向かう途中、北上川を渡る。パッと見たら「海だ!」と思ってしまうほどに川幅が広い。

 

 北上川の両岸沿いの田んぼはことごとく津波に襲われた。栄村の地震で被災した田んぼとはまったく異なる様相だ。いちばんの違いは、津波によって運ばれてきたごみがたくさん田んぼの中に入り込んでいて、これを取り除かないと、復旧工事もできないことだ。ビニール袋やペットボトルなどが入っていて、除去は手作業以外には方法がない。その作業の途中、休憩のお茶のみをしていたのが下の写真のみなさん。


 長野県栄村から来たと話したところ、栄村の震災をご存じだった。「月刊栄村」をお渡しすると、「こういうものをつくらなきゃね」と言っておられた。

* 南三陸町への国道398号線で

北上川の河口
南下しながら、新北上川橋方向を望む


上の写真と同一地点で河口側を望む。太平洋が見える。


国道398号線がなくなった箇所
 
398号線を進み、石巻市の相川地区でのこと。「南三陸町へ迂回路」という表示があったが、よくわからず、直進すると、道路が突然無くなっている。倒れた電信柱を使って、車を止めるようにしてある。元々は、写真の右上に見えるトンネルに通じていたのだ。


 上の写真の中央に見えるのが、上の道路切断箇所。
 

 こんな激しい被害だが、現在の相川湾の海は穏やかで美しい。

「小滝」という集落
 この相川地区を越えてさらに進み、もう間もなく南三陸町に入るという手前で、突然、「小滝」という地名が目に入った。地図で確認すると、漁港もある漁村集落だ。




* 南三陸町
 国道398から国道45号線に入り、南三陸町の中心部に入った。右のガソリンスタンドは7月に訪れたとき、「4月から仮店舗で営業している」と聞いたところ。




  “壊滅”した町中心部はいまも無残な姿を見せる。しかし、7月に訪れたときに基礎工事に着手したばかりであったFamily Martの仮店舗が営業していた。10月初めに開店したという。


果物を売る店も出来ていた。

 
南三陸町の中心部の全景
右は同じ地点から7月に撮影したもの。大きくは変化がない。


 左写真の右端に見える鉄骨だけの建物は南三陸町役場の残骸。
 

仮設住宅にて
 7月にも訪れた志津川中学校のグランドにつくられた仮設住宅を再び訪れた。7月の時よりも棟数が増えている。9月頃に入居が終わったのだという。

 
 丘の上に見える白い建物が志津川中学校。その右手が仮設住宅。


自治会館正面入り口

 7月にはなかった仮設住宅団地自治会館というのがあったので、訪ねてみた。
 横倉の仮設住宅の集会所と同じようなものだ。仮設の住人でもある鈴木さんという方がご夫婦で世話役をやっておられた。
 鈴木さんによれば、まず、仮設はいろんな地域の人が入り混じって入居しているので、放っておくと自治会−自治会館は動かないという。また、「元々の地区の区長さんらは、通常の区の集会所のように思っているので、なにか会合があるときだけ開ければいいと思っている。しかし、それでは仮設のまとまりができないので、常時開けるように世話役をしている」とのこと。恒常的に手伝いに来てくれているボランティア団体もあり、自治会館の一室はボランティアの宿泊場所として使っているそうだ。


 上写真は、仮設の住人(左の2人)と近畿から来たボランティアで仮設住民から注文された物置きを作っているところ。実費だけはらってもらうそうだ。
 

さまざまな移動販売車が来るように手配しているとのこと。

 
ボランティア宿泊用の部屋              集会室


* 馬場中山地区(南三陸町歌津
 続いて、11月6日のNHKスペシャルで報道された馬場中山地区を訪れた。南三陸町の中心部からはかなり離れている。
 南三陸町は「平成の大合併」で旧志津川町と旧歌津町が合併し、2005年に出来た町。馬場中山地区は旧歌津町の中の1地区で、町の中心部から見れば半島の裏側に太平洋に面して位置し、2つの集落がある。
 南三陸町の町役場職員も多人数が死亡する中で、発災から1ヶ月間ほど、行政の支援がまったく入らず、自力で生き延びたという。
 国道45号線の「名足小入口」という交差点を右折し、山道をくねくねと進むと、突然視界が開け、港に出た。

 
 港に面する道は舗装がダメになり、砂利道になっている。7月に東北各地を廻ったとき、どこにも砂利道がたくさんあったが、この馬場中山地区に入った途端に出会った砂利道はすぐそばが海だということもあってか、初めて「怖い!」と感じた道だった。

 発災直後の約1ヶ月間、自力で生き延びた馬場中山の人たちが避難所としたのが下写真右の建物(馬場中山生活センター)。高台にある。そのすぐそばに新しく建てられた下写真左の建物が現在、馬場中山支援センターとなっている。「国境なき医師団」から贈呈されたことを記す看板がかかっている。

 私もこの支援センターを訪ねた。千葉馨さんという30歳代の若者がおられた。馬場中山地区ホームページを制作している人だ。突然の訪問であったにもかかわらず、丁寧に色々と説明して下さった。

  


未来道プロジェクト

 お話を聞いた後、「未来道」の入口まで案内していただいた。左下の写真が入口にたてられた看板。未来道プロジェクトに協力している団体・会社などの名前が記されている。

「未来道プロジェクト」について、同プロジェクトのホームページでは、つぎのように説明されている。
「津波で道路が寸断され外部との行き来が難しい馬場中山地区にとって、唯一残った道が高台を通るとても狭い農道でした。そのルートを今後の避難道として、高台への集落移転を目的とする幹線道路として、そして百年先の世代まで安心して暮らしていくための道路を実現させようと立ち上げられた」。
 実際に歩いてみた。多くはスギの木から成る林を切り拓かれ、道が出来ている。道路脇には伐採された木が見え、道は砂利が敷かれ、転圧もされて、しっかりした道になっている。下の1枚目の写真の部分は元々あった細い農道を広げたところ。

 
 2枚目は、その農道の先をまったく新たに切り拓いたところ。

 私が訪れた17日午後も新たな伐採作業が行なわれていた。写真に写っているのは、プロジェクトチームのリーダーのイチロウさんと千葉馨さんのお兄さん。
 重機は福井県大野市の建設業会が貸し出して下さったもの。


 上の写真に写っているのが旧農道。

 切り拓いた林は100人近くの地権者がいるそうだ。合意形成には手間暇がかかるようだ。この日、新たに伐採されていた箇所は「イチロウ」さんが単独で所有している土地であることから。以前に農道もなかったところを全く新たに自由に切り拓くことができるのだとのお話だった。
 町役場にはこのような道を開いたことを知らせ、集落高台移転と合わせて、町として認知するように求めている。

 行政の「復興計画」を待たず、このように自力で道路まで拓き、地区の復興にむかっての歩みを進めている事例は他にに類例をみない画期的なものだと思う。
 未来道の入口付近からの眺めも素晴らしかった。この景色が望めるあたりが高台への集団移転の候補地のようだ。




漁業復興プロジェクト(なじょにかなるさープロジェクト)
 馬場中山地区には復興プロジェクトがもう1つある。漁業復興プロジェクトだ。こちらには「なじょにかなるさープロジェクト」という愛称も付けられている。
 地区のホームページではつぎのように説明されている。
「津波で船も漁具も全て失った……震災から4か月を経て復興に向け『なじょにかなるさー(何とかなるさ)プロジェクトを立ち上げました。
……この秋、津波前の10分の1程度の規模でわかめ養殖を再開しようと動き出しました」。
 そこで取り組まれたのは、わかめ養殖の作業に必要な5t程度の船を手に入れること。下の写真「福福丸」がそれ。9月に北海道函館で中古船を購入し、地区の人たちが操船して中山の港まで運んできた。


福福丸

 わかめ養殖には、浮きと浮きをロープでつなぎ、そのロープの下に養殖網をぶら下げるようだが、浮きを固定するために、浮きの下に「土俵」と呼ぶもの(土嚢のようなもの)を沈める。その作業のために「福福丸」が必要だったのだ。土俵入れの作業はすでに終了し、いまは種つけの作業が始まろうという時期だという。


 港は上の写真のように岸壁が沈下している。そういう中でも小さな船で沖に出て漁をしている漁師さんたちに出会った。
 下の漁師さんは大きなタコを獲ってきたところだった。
 船は他の港から津波で流されてきたものを修理して使っているという。そういう船の中に、新たに「栄丸」と名付けられたものもあった。

 
 先に未来道プロジェクトで紹介した「イチロウ」さんも漁師で、「もう1隻、船を買う。今度は俺も北海道まで行く」と話しておられた。
 とにかく元気な地区で、私たちが栄村の復興を考えるうえで大変参考になるものだと思う。


* 鉄道
 三陸海岸を走るJRや三陸鉄道は随所で寸断され、壊滅的な状態にある。車での移動中に見た、「駅だったところ」を撮影した。


JR気仙沼線陸前戸倉駅

  
気仙沼線清水浜駅付近(右が駅の跡)

号外 東北巡り日記3(11月17日)

 昨夜が一関泊まりになったので、朝7時過ぎに一関を出て、国道284号線で気仙沼に戻ることから行動開始。9時前には気仙沼に着いて、7月に見た気仙沼漁港、その周辺、イオン、壊滅した住宅地などを廻ってみた。

 9時半過ぎに気仙沼市内を後にして、国道45号線で大きくは釜石・宮古方向をめざす。
 途中、2ヶ所に立ち寄ることを計画していた。1つは要谷漁港。「月刊栄村」8月号の表紙写真になったところで、元気な漁師のおやじさんと会ったところ。もう1つは崎浜という、大船渡市のはずれにある半島の先端の漁村。ここも7月に訪れ、地元の人と話した。いずれもその人たちと再会できれば、との思いである。また、要谷漁港の手前で、川沿いに奥の方まで津波が入ったところで、7月にお話を聞いたところにも立ち寄った。

 釜石は街全体が潰れたわけではないので昼食を食べるところがあるのではないかと思い、陸前高田市を経て、午後1時過ぎに釜石へ。釜石駅近くのスーパーやKsデンキなどがあるところで、震災前は居酒屋をやっていたという人のキッチンカーで丼を食べ、釜石の様子について聞く。

 その後、大槌町に少し立ち寄って、45号線をひたすら北へ。午後3時頃、宮古に着いた。ここでは、「にほんの里100選」のシンポジウムでお会いした朝日新聞記者の伊藤智昭さんが震災後、支局に赴任されているので、お会いする予定。夕刻に取材が入ったとのことで、会うのは夜にして、伊藤さんのお奨めで、津波防止の大堤防がある田老町(宮古市内から車で15分くらいか)を見に行った。


* 気仙沼漁港
 

 気仙沼漁港は、魚市場が再開されたばかりだった7月に比して、人びとの動きが活発で、活気があるな、と感じた。上の写真はカツオの水揚げ作業。


 7月には見られなかった、魚を運ぶフォークリフトが市場内をくるくると走り回っている。


 また、魚市場の前の加工工場、倉庫などがいっぱい建ち並んでいたゾーンでも、7月と比べて、土地の整理などが少し進んでいる感じがした。上の写真で私の車が停まっているところは、アスファルト舗装で駐車場として整備されている。
 
 
 また、上の2枚の写真は、同じ箇所の7月(右)と今回を比較したもの。浸水したままのところが狭まり、砂利を敷いたりしているのがわかる。
 
 
 倉庫・加工工場街では市による応急工事も行なわれている。看板に書かれた工事開始日は10月7日になっている。
 次頁の2枚の写真を見比べると、倉庫等の建物、ガレキはまったく変化がないが、7月(右)にはなかった電柱・電線が整備されていることがわかる。

 
 
 このように、気仙沼の漁港街が再起・復興にむけて、エネルギーを充満させている感じが伝わってくるのだが、今回の旅の前に新聞で読んだところによれば、市の整備計画−復興計画が固まらず、建築制限命令が延長されたため、倉庫や加工工場の再建が進められないという。
 津波対策の観点からの土地利用計画の策定などが必要であることはそのとおりだが、「地域を再興する」という人びとの情熱・思いとテンポ、内容が合っていないという感を強くもった。

 
* 気仙沼の街
 7月に見て廻り、印象に残っているいくつかのポイントを再訪してみた。

 
 これは大型スーパー・イオン。ここも津波が襲った。7月に訪れた時は、2階で営業再開されていたが、1階は津波で土砂が入ったままで、2階の店舗に入ると、嫌な腐敗臭がプーンと臭ってきたものだった。しかし、今回訪れてみると、1階もすっかり整備され、1階部分での営業も再開されていた(ただし、営業時間前だったので中には入らず)。漁港地域と比べ、海との距離の違いもあるが、大資本の力というものを感じさせられた。

 
 このイオンの前を通る県道26号線(東浜街道)を少し南下し、JR気仙沼線松岩駅付近を見る。上の写真(右:7月、左:今回)のとおり、夏草が枯れて消えたことを除くと、ほとんど変化が見られない。
 

* 唐桑釜石下
 JR松岩駅付近を見た後、国道45号線に戻り、気仙沼市街をバイパスする形で陸前高田、大船渡方向に向かった。
 最初に立ち寄ったのは、陸前高田市との境界に近い、気仙沼市唐桑町釜石下地域。青野沢川という川に沿って津波が山奥まで入り込んだところで、7月には1軒だけ残ったお家の方に話を聞いた。再訪するも、そのお家はお留守だった。国道45号線から青野沢川沿いの道に左折するとき、1台の軽自動車と出会った。この川沿いには家は1軒しか残っていないので、その軽自動車に乗っていた人が訪ねたお家の人だったのではないかと思う。お会いできなかったのは残念だが、「月刊栄村」第2〜4号を玄関に置いてきた。

  
 上の左が7月の写真だが、中央に見える家は解体される一方、左に見える家(1階内部が津波で破壊されている)で修復が進み、修復完成間近になっている(右写真)。


 訪ねたお家のすぐ側には、はぜ掛けのはぜが畦に見られた。津波を免れたほんのわずかの田んぼで今年も稲作が行なわれたのではないかと思われる。


* 要谷漁港
 「要谷」は「ようがい」と読む。

 
 上左が今回の写真。右の7月と比べると、対面の山が紅葉しているところが違う。いい風景だ。
 7月に出会った漁師さんが「向かいの港に流されたのを取りに行き、車で運んだきた」と話していた漁船「寿丸」が、今回は海に入れられ、岸壁に係留されていた。


 7月に出会った漁師さんとは会えなかったが、次頁の写真の人(河野勇さん)によれば、「アラキ・ヒデカズ」さんというお名前であることがわかった。

 
 この写真に写っている漁船は、この港ではいちばん大きなもの。船上で作業していた河野さんのお話では、つい先日、神奈川県平塚市から贈られた釣り船だという。船籍の書き換え手続きをしているところだそうだ。ホタテなどの養殖の作業に使うそうだ。
 

* 陸前高田
陸前高田は、今回はスケジュールの都合上、国道45号線を走りながら状況を観察するだけにとどめる予定だった。
 

 上は、有名になった「陸前高田の1本松」。


 この日は強風注意報が出ていたが、参ったのが「砂嵐」と言っても過言ではない土埃(つちぼこり)だ。風が強く吹くと、前方がまったく見えなくなるほどで、車に土の粒が当たり、パチパチと音がする。写真ではわかりにくいだろうが、道路脇の草のなびき方を見てもらえば、風の強さはわかると思う。そして、全体が少し霞んでいることが分かってもらえるかと思う。


* 崎浜
次に訪れたのが、大船渡市の北東のはずれ、三陸町越喜来(おきらい)地区の崎浜集落。


 上は崎浜の漁港の防潮堤を背に集落の真ん中を走る道路を撮影したもの。写真の左側にヤマザキショップの新しい店舗が見える。7月にはなかったものだ。その手前に見える茶色のコンテナハウス(プロパン販売店の仮設事務所)が7月に訪ねて話をしたところだったので、再訪したみたが、お留守。そこで、ヤマザキショップを訪れた。


 ヤマザキショップの右に見える緑色の家。この家の人と7月、プロパン販売店で話した。「家の中に土砂が入っている。これから泥出しの作業をする予定」という話だった。そこで、ヤマザキショップで1品、買い物をしてレジの女性に「お隣のお家はもう片付けが済んで、お住まいになっていますか。7月にこの場所を訪れた時、お家の人にお話を聞いたのですが」と尋ねると、「掃除は住んだが、まだ住んではおられない。奥にいますよ。話してみますか。(奥の事務室に向かって)主任さ〜ん」と声をかける。そして、顔を出されたのが上の写真の真ん中の方。

 「長野県栄村の先生ですよね」と言って、私のことを覚えていて下さった。「家族・親戚総出、ボランティアさんの支援もうけて、泥を出し、その後、業者さんに消毒をしてもらった」とのこと。このヤマザキショップは10月に開店したものだそうだ。


さらに、港の手前で新築工事が始まっている建物(上写真)について尋ねると、「水産加工所。住宅ではないので建築が認められた」とのこと。
 崎浜の海は相変わらず美しい。


 崎浜を訪ねた翌日(18日)、宮古で買い求めた地元紙「岩手日報」を読むと、大船渡市から越喜来地区などの復興計画−土地利用計画が示され、数日後から地元との調整が行なわれるとのこと。
 先の写真に見えた、港の前の集落の中心部は非居住区とされている。
 こうした「復興計画」については、改めて検討し、問題点を抽出したいと思っている。

 
* 釜石
 昼食を食べようと思って立ち寄った釜石市。かつては新日鉄の大製鉄所で賑わった街だが、いまは高炉も廃止され、人口も減っている。

  
 キッチンカーが出ていて、そこで丼を買い求め、食べながら、店主の人からいろいろと話を聞いた。

 どこの地域で話を聞いても、行政に対する不満や批判の声を聞くが、ここで聞いたのは最も激しいものだった。港に近い市の中心部は、いまも満潮時などは海水をかぶり、営業再開のメドもまったく立たないという(満潮時に海水が道路等に入り込むという話は南三陸町でも聞いた)。


 上の写真の中央部、海に白いものが点在しているのが見えるが、これが有名な総額1400億円を投入して建設された湾口防波堤の残骸。


* 田老町
 田老(たろう)は「平成の大合併」で2005年、宮古市の一部となったところだが、高さ10m、長さ1.5kmの巨大防波堤(下の写真)で有名なところだ。


 今回の津波の高さは30mに達し、この大堤防をやすやすと越えたといわれる。
 田老町は1986年の三陸地震津波で約1,900名が亡くなり、37年後の昭和の大津波(1933年)でも約900名がなくなったという。

 今回の被害をめぐって、ネット上では「大防波堤はまったく役に立たなかった。大堤防で安心していたからだ」という説が多く見られる一方、「死亡者は少なかったことで、防波堤の意義はあった」とする意見も見られる。
 私は詳しい調査はしていないので、それを論評することはできないが、2つのことは指摘しておきたいと思う。

 1つは、「大堤防か高台移転か」の二者択一の議論は不毛ではないかということ。一定の防波堤等はつくったうえで、堤防より内側の土地利用の工夫、避難のソフト面の充実等と組み合わせる対策が必要だろうということ。

 2つは、そのこととも関連するが、今回の津波で大堤防が破壊された箇所と破壊されなかった箇所の違いについて詳しい検証が必要ではないかということ。


 この大堤防は昭和大津波をうけて昭和8年(1933年)から建設され始めたが、工事は戦後も続いた。堤防は下の2枚の写真が示すように、X字型をしている。海にむかって右側はX字型の2本の堤防が生き残っている(上の写真)。それに対して左側の堤防は海側の堤防が破壊されている(下の写真)。


 伊藤氏によると、右側の海側堤防が比較的なだらかな傾斜面をもって構築されているのに対して、破壊された左側の海側堤防はかなり垂直的に構築されているという違いがあるという。この左側の海側堤防が破壊されたことによって一気に津波が市街地に入ったという。堤防一般ではなく、堤防の作り方も大事なのではないかと思われる。垂直に近い型の部分はより遅い時期につくられたもののようだが、津波の衝撃を和らげる構造ではなく、ドーンとまともに受け、「大堤防で津波を抑え込んでしまおう」という思考法がより強いものに感じられるのだ。
 そういうことも詳しく検証することが必要だと思う。

 別の機会に詳論したいと思うが、いま、メディアで報じられている「復興計画」をみると、「大堤防と高台移転」のセットがどの地域にも機械的に当てはめられ、今回の大津波の詳しい検証をふまえた、それぞれの地域の特性などを十分にふまえたものになっていないように感じられる。「復興」を急がなければならないのだが、その一方で、地域の住民の経験や知恵も十分に活かし、それぞれの地域にふさわしい復興への道を探っていくことが大事だと思うのである。


港側から大堤防を望む

* 宮古市内
 宮古市内は浸水面積はかなりあったものの、被害はさほど大きくはなかったようだ。
 JR宮古駅の観光案内所に下のような掲示があった。

 
 
 翌18日、宮古を出発する前に、この鍬ヶ崎地区を見てきた。
 漁港に面した地区で、津波にまともに襲われたようだ。




* 仮設住宅について
 17日夜、伊藤さんとお会いして話したが、仮設住宅の二重窓のことを尋ねられた。東北では冬を目前に控えて、慌てて二重窓化の工事が行なわれ、宮城県では対策工事完了に年内いっぱいかかるとのこと。
 伊藤さんから「栄村の仮設はどうなっているのか?」と尋ねられ、「はじめから二重窓、断熱材入りですよ」と答えると、彼はビックリ。「どうして、栄村ははじめからなの?」と。

 思い返してみると、栄村では当初から「豪雪対策」が当然の前提。しかも、すぐ近くに中越大震災、中越沖地震の二度にわたる仮設住宅をめぐる教訓があったことが大きい。
 それにしても、全国メーカーのプレハブ協会が担当していながら、なぜ、中越の教訓が東北には生かされなかったのか、よく検証してみる必要がある。
 

* 「岩手県のへき地・三陸沿岸」
 伊藤氏の話でもう1つ印象的なことがあった。宮古市などの三陸沿岸地域は「岩手県のへき地だ。岩手の中心は盛岡市など内陸にあって、被災地の沿岸部から遠いところで『復興』が考えられているので、被災地のことが少しもわかっていない」という話だ。

 今回は仙台東部道路→石巻から宮古まで三陸沿岸を北上したが、たしかに石巻、気仙沼あたりと宮古あたりでは随分と雰囲気が違う。石巻は三陸沿岸地域というよりも、仙台湾岸工業地帯の一角という感じで、石巻市は宮城県第2の都市である。気仙沼は漁業の町だが、一関市(岩手県)まで車ならば1時間強で出られる。それに対して、宮古から盛岡へは山岳地の川沿いの国道106号線で約2時間を要する。
 国・県が復興計画を検討・実施する拠点を東京や盛岡ではなく、三陸沿岸地域に置くのでなければ地域の実情をふまえた復興はできないのではないか。

 ちなみに、「平成の大合併」で山の中の村が宮古市や盛岡市に編入され、区境峠という峠で盛岡市と宮古市が直接に接している。大行政区では地域の特性、実情に根ざした復興、まちづくりはできないなと痛感した。


 区境峠は標高約1,000m。区境峠まではずっと美しい紅葉が見られたが、区境峠付近は積雪が見られた。

 盛岡から長岡まで高速で約490km。宮古〜盛岡、長岡〜栄村を合わせると、約650kmくらいだろうか。これをSAでの昼食を挟んで一気に走って帰ってきた。やはり相当に遠いなという感じ。

 でも、栄村の復興を考えるためにも、今回は訪れなかった飯舘村(福島県)を含め、南三陸町の馬場中山、越喜来地区崎浜、宮古などを3度、4度と訪れる必要性を感じている。冬は雪が大変だし、3月12日の1周年にむけて忙しくなるだろうが、大学が春休みとなる時期(2〜3月)を使って、3度目、4度目の訪問を計画したいと思っている。
 (了)

栄村復興への歩みNo.100(通算第134号)

 15日から18日にかけて3泊4日で再び東北被災地巡りの旅に出てきました。
 7月に続いて再び訪れたのは石巻、南三陸町、陸前高田、釜石、初めて訪れたのは女川町、宮古市です。

 旅の途中から「東北巡り日記」をパソコンで書いていましたが、毎日の運転の疲れもあって旅の過程では未完成、村に戻ってから村での仕事をしながら続きを書いて、ようやく20日午後、ひとまず書き上げました。ただし、全部で36頁という厖大なものになってしまいました。「月刊栄村」11月号の全戸配布時期とも重なりますので、「日記」全36頁の公開はブログ上で行なうこととし、この「復興への歩み」ではダイジェストを何回かに分けて紹介していくことにします。
 今日は何枚か、とくに印象的だった場面の写真を紹介します。