栄村復興への歩みNo.257
- 復旧の進み具合
- 2015.06.19 Friday
「地震から4年間ずっと通行止め、どういうことですか」
――五宝木住民の怒りの声
6月11日朝、新しく出来上がった「復興への歩み」No.256を持って、まず五宝木集落を訪れました。
以前からお知り合いの山田政治(まさじ)さん・セキさんご夫婦にお会いし、お茶のみをしながら、暮らしの様子など、さまざまな話を楽しくさせていただきました。
小1時間ほどのお茶のみでしたが、話の後半で政治さんが怒りの表情を込めて話し出されました。
「ここの道路は地震から4年間ずっと通行止めなんですよ。
1年や2年ならわかります。でも、4年も経っているんで
すよ」
私はハッとしました。私も、「今年こそは極野から五宝木へぬけることができる」と思って春を迎えたのに、今春になっても通行止め。でも、その原因を深く追求することなく、この日も日出山線を走り、旧鳥甲牧場を通り抜けて五宝木に向かっていました。
政治さんは、「私らがここで暮らしていることを忘れているんじゃないの」という趣旨のことも言われたと記憶しています。
私は決断しました。
「政治さん、わかりました。いまから道路の状況を見に行ってきます。かなり危険なところがあるかもしれないけれど、とにかく行ってみます」
そこで見てきたものを写真入りで報告します。
今冬の雪崩で道路が塞(ふさ)がれ、電柱も倒壊
五宝木から極野方向に道路を進み、山間(やまあい)の地帯に入っていくと間もなく、道路にそんなに大きくない落石が散在する箇所があります。そして、今冬期間中に雪崩等で土砂が道路へ流出したと思われる場所に遭遇しました。
写真1
写真2
後に取材してわかりましたが、この地点の雪崩で電柱が倒壊したそうです。
そして、その電柱が撤去されたのが、私が現場に行った日の前日、6月10日(水)のことだったそうです。雪が消えてからずいぶんと日数が経(た)っています。五宝木の人たちが森集落にある冬期間用の住宅を出て、五宝木に戻られたのは5月の連休の頃。それから1ヶ月強の日が経過しています。
13日に2度目の現地調査に行った時に注意してみると、電柱が1本なくなった分、電線が低くなっていて、隣接する電柱とワイヤで結んで引っ張ってあるのが見えました(下写真。左手の黄色の線が電線。写真中央上から真ん中やや右へワイヤが貼られているのが見える)。
写真3
この雪崩箇所は、電柱を含む倒壊物や流出物が撤去されたことで通行の障害はなく、また、よほどの大雨等がなければ、雪崩が発生した沢で土石流等がすぐさま発生する危険があるようには思えませんでした(もちろん、詳しい専門的調査は不可欠です)。
地震災害復旧の法面大規模工事が予算カットのため中断
写真1の地点の後、2ヶ所ほど、道路面に雪の力で土砂や倒木が道路に流出したと思われる箇所が2ヶ所ほどありましたが、私が息をのんだのは次の写真4の場面に遭遇した時でした。
写真4
見た当初に思ったことは、「1つの山が完全にぬけている。これじゃ、いつ大災害になるか、わからない。とても通行止めは解除できないな」というものです。誰が見ても、そう思うのではないでしょうか。
この付近でかなりの枚数の写真を撮ったりして、極野方面にさらに進んだところで、周囲の状況等から、写真4の地点が昨年、法面工事が行われていた場所であることに気づきました。
そこで、12日朝、県北信地方事務所の林務課に電話し、栄村の震災復旧工事等でよく存じ上げている職員の方からお話を聞きました。
そこで、以下のことが判明しました。
1. 法面工事は昨年度、今年度の2年にわたる計画
2. 今年度、県が国に申請した予算が7割しか認められず、
南木曽、御嶽山関連、昨年11月の神城断層地震関係の対
策を優先させた結果、この箇所の今年度工事費用が確保で
きなくなった。
3. 今後の補正予算等での復活をめざしているが、現在のとこ
ろ、予算確保の見通しはたっていない。
工事が途中で止まってしまったのです。
しかし、2年連続の工事を前提として、斜面はすでに木がなどは伐採され、地肌はむき出しになっています。
私は、県林務課と電話で話した後、村役場の人とも話しましたが、この箇所について村役場が打つ手はありません。
私はさらに、2つのことをしました。
1つには、13日に再び写真4の現場に行きました。昨年6月30日に法面工事現場の山の上へ行った経験をふまえて、写真4の地点の山の上に行ってみました。
写真5
写真6
写真4のいちばん上の方に芝を貼ったような緑の部分が見えますが、それよりも上の部分(写真4では見えないところ)では上の写真5のような工事が完成していました。これは今冬の大雪でも損傷を受けた様子はありません。この箇所を下り、写真4の急斜面の間際まで進んで撮ったのが写真6です。怖くて、これ以上は覗き込めませんでしたが、この下が写真4の地肌?き出しの急斜面です。
また、極野〜五宝木間の道路に戻ってから、ある地点から見ると、写真6の右にあたる地点の山の上にブルーシートが張られているのが見えました。
写真7
もう1つは、この法面工事に携わった方の意見を聴くことです。
その方は、「もちろん危険です。大きな石が落ちる危険がある」と言われました。
さて、どうすべきか
14日段階で私が確認したところによれば、村役場は、12日に道路に残る土砂等をきれいに片づける作業を行うとともに、担当者が五宝木地区を訪ね、「五宝木の人は通行してもらって結構です」と伝えてこられたとのことです。
私も、晴天状況が続いているならば、落下している石に注意するなどすれば、通行はできると思います。また、13日に極野から五宝木にむかって車を走らせてみて、日出山−鳥甲牧場経由のコースよりも短い距離、短い時間で五宝木に行けることを改めて確認しましたので、なんとか「通行可」としたいと思います。
しかし、法面工事が中断し、地肌が?き出しになっている写真1の地点に大いなる危険があることは否定できません。少なくとも、一定の雨量を超える時は通行止めにしないと安全は確保できないと思います。
いちばんよいのは、なんとかして予算を確保し、工事を完成させることです。
しかし、すぐにそうはならない現状では、県林務課、村役場、工事関係者、専門家等で充分に調査・協議してもらい、当面の安全確保策(降雨時の通行止めにする基準等を定める等)を決めてもらうことが最低限必要だと思います。
居住者少数の周縁集落を大事にする――村政の急務
ひとまずの対策は上に書いたとおりですが、今回の五宝木の道路問題はそうした当面の対策を超えて重要な問題を突き出していると思います。
居住者が少数で、しかも高齢化が進んでいる。そういう村の
周縁に所在する小規模集落を村はどのように守っていくのか
という問題です。
五宝木だけではありません。山田政治さんの口からは「坪野」の名前が何度となく出ました。「復興への歩み」では坪野集落の問題を何度となく取り上げてきました。役場にはそういうつもりはないかもしれませんが、震災後の対応では坪野は「忘れられた被災地」として扱われてきたことが事実の問題として否定できません。上水道の復旧工事が1年以上遅れた事実だけをとっても、そのことは明白です。
そして、今回の五宝木、役場が五宝木を直接に訪れたのは政治さんらの声が役場に届けられてからです。
これは個々の担当者の問題ではないと私は思います。
村政、行政において、五宝木や坪野のような周縁・高齢化・少数世帯の集落に目が向けられていない(あるいは、目の向け方が非常に弱い)という問題だと思うのです。
村民のみなさんも真剣に考えていただきたいと思います。
「栄村は将来どうなるんだ? 人が減り、村はいずれなくな
るんじゃないか」
最近、村の人が集まる場でよく聞く会話です。
事態は周縁地区から始まります。
行政が行政としてなすべきことを充分にせず、さまざまな問題が個々人に委ねられてしまうとき、個々の人はあまりに大きな問題に対応しきれなくなり、個々が村を離れるという形でしか対応できなくなります。人数はまだ少ないですが、そういう事例を私は見ています。
いまが、こうした問題に対処できるギリギリのタイムリミットなのではないでしょうか。
五宝木にたつ開拓記念碑(昭和21年4月入植とある)
築かれてきた暮らしの知恵・技に学ぶ、本当に創造的な村づくりを
6月7日のことだと思いますが、冬の間、森集落の五宝木住宅で暮らす政治さんらとお付き合いがある森の人たちが五宝木を訪れ、政治さんの案内で山菜採りをされたそうです。
五宝木の山菜の豊かさは栄村の中でも屈指のものでしょう。政治さんは90歳を超えられ、もう深い山に入ることはしないようにされていますが、最近まで山菜採りで随分と稼いでこられました。私が聞くところでは、とても良い山菜を採る知恵と技をお持ちだったことに加え、販売先として「いいものを、きちんとした値で買う」という販路の問題も自ら解決されていたようです。
五宝木は冬は栄村の中でもいちばん厳しいものの、その名に「宝」という漢字が入っているように、恵み豊かな土地です。私はこの宝を現代にも活かせると思うのです。
要は、村の中での位置づけ、施策のあり方です。たとえば、「復興支援員」や「地域おこし協力隊」の制度を村が使うのならば、少なくとも1人(1家族が望ましいが)、「五宝木の宝を活かすことに挑戦する」という募集をするというような発想法があって然(しか)るべきだと思います。
キャラブキ(セキさん手作り)
タケノコ、手作りコンニャク、揚げの煮物(セキさんの手作り料理)
被災地の5年後、10年後を総合的に見守るシステムが必要
もう1つ、提起しておきたいことがあります。
五宝木への道路の法面工事が予算カットで中断に追い込まれたのは、震災から5年目を迎え、少なくとも国にはもはや栄村を被災地として見る眼がなくなっていることの現れだと言わねばなりません。
話が飛ぶようですが、中条川で現在行われている災害復旧工事の多くは、「平成25年度台風災害の復旧工事」であって、4年前の地震による山の崩壊・土石流の発生に対する復旧工事ではありません。地元ではそういう区別なく、災害復旧工事として受け止めていますし、県の担当者も予算の確保方法としてそのように命名しているだけという面もあるかもしれませんが、震災からの復旧(復興)を5年、10年の単位で見るという考え方が国にはないことは明瞭です。県もまた、「栄村の震災復旧は基本的に済んだ」という見方であり、いま、県に栄村の震災復旧(復興)問題を総合的に検討する場はないといってよいのではないでしょうか。村では、「震災復興計画」でそういう総合的な検討をする場として「復興推進員会」(仮称)の設置を求め、そういう名称の委員会はたしかに設置されましたが、「復興計画」が求めた機能を果たしているとは言い難い現状です。
震災のもたらしたダメージは4年、5年を経る中でじわーっときいてくるもののようです(ボクシングのボディーブローのような感じ)。五宝木の道路問題はそういうことも突き出していると思います。
今号は五宝木の道路問題を知って、「1日、11日、21日の定期発行」のスタイルを崩して16日付で発行しました。内容は五宝木の道路問題だけで、字数も多く、ちょっと読みづらいという方もおられるかもしれません。時にはこういう号もあるものとご了解ください。
最後に、15日に野々海で撮影した写真をご紹介します。
池面の雪は消えました。
ミズバショウの開花が進んでいる東窓の湿地です。
イワナシの花です。その左下に「小さなナシ」のような実も見えます。
(前号で「イワナシ」として紹介したものは正しくは「アカモノ」(別名イワハゼ)でした。お詫びし、訂正します)
<次号の発行予定について>
16日付号を発行しましたので、21日の発行はありません。次号を7月1日とするか、それよりも早めるかは未定です。
――五宝木住民の怒りの声
6月11日朝、新しく出来上がった「復興への歩み」No.256を持って、まず五宝木集落を訪れました。
以前からお知り合いの山田政治(まさじ)さん・セキさんご夫婦にお会いし、お茶のみをしながら、暮らしの様子など、さまざまな話を楽しくさせていただきました。
小1時間ほどのお茶のみでしたが、話の後半で政治さんが怒りの表情を込めて話し出されました。
「ここの道路は地震から4年間ずっと通行止めなんですよ。
1年や2年ならわかります。でも、4年も経っているんで
すよ」
私はハッとしました。私も、「今年こそは極野から五宝木へぬけることができる」と思って春を迎えたのに、今春になっても通行止め。でも、その原因を深く追求することなく、この日も日出山線を走り、旧鳥甲牧場を通り抜けて五宝木に向かっていました。
政治さんは、「私らがここで暮らしていることを忘れているんじゃないの」という趣旨のことも言われたと記憶しています。
私は決断しました。
「政治さん、わかりました。いまから道路の状況を見に行ってきます。かなり危険なところがあるかもしれないけれど、とにかく行ってみます」
そこで見てきたものを写真入りで報告します。
今冬の雪崩で道路が塞(ふさ)がれ、電柱も倒壊
五宝木から極野方向に道路を進み、山間(やまあい)の地帯に入っていくと間もなく、道路にそんなに大きくない落石が散在する箇所があります。そして、今冬期間中に雪崩等で土砂が道路へ流出したと思われる場所に遭遇しました。
写真1
写真2
後に取材してわかりましたが、この地点の雪崩で電柱が倒壊したそうです。
そして、その電柱が撤去されたのが、私が現場に行った日の前日、6月10日(水)のことだったそうです。雪が消えてからずいぶんと日数が経(た)っています。五宝木の人たちが森集落にある冬期間用の住宅を出て、五宝木に戻られたのは5月の連休の頃。それから1ヶ月強の日が経過しています。
13日に2度目の現地調査に行った時に注意してみると、電柱が1本なくなった分、電線が低くなっていて、隣接する電柱とワイヤで結んで引っ張ってあるのが見えました(下写真。左手の黄色の線が電線。写真中央上から真ん中やや右へワイヤが貼られているのが見える)。
写真3
この雪崩箇所は、電柱を含む倒壊物や流出物が撤去されたことで通行の障害はなく、また、よほどの大雨等がなければ、雪崩が発生した沢で土石流等がすぐさま発生する危険があるようには思えませんでした(もちろん、詳しい専門的調査は不可欠です)。
地震災害復旧の法面大規模工事が予算カットのため中断
写真1の地点の後、2ヶ所ほど、道路面に雪の力で土砂や倒木が道路に流出したと思われる箇所が2ヶ所ほどありましたが、私が息をのんだのは次の写真4の場面に遭遇した時でした。
写真4
見た当初に思ったことは、「1つの山が完全にぬけている。これじゃ、いつ大災害になるか、わからない。とても通行止めは解除できないな」というものです。誰が見ても、そう思うのではないでしょうか。
この付近でかなりの枚数の写真を撮ったりして、極野方面にさらに進んだところで、周囲の状況等から、写真4の地点が昨年、法面工事が行われていた場所であることに気づきました。
そこで、12日朝、県北信地方事務所の林務課に電話し、栄村の震災復旧工事等でよく存じ上げている職員の方からお話を聞きました。
そこで、以下のことが判明しました。
1. 法面工事は昨年度、今年度の2年にわたる計画
2. 今年度、県が国に申請した予算が7割しか認められず、
南木曽、御嶽山関連、昨年11月の神城断層地震関係の対
策を優先させた結果、この箇所の今年度工事費用が確保で
きなくなった。
3. 今後の補正予算等での復活をめざしているが、現在のとこ
ろ、予算確保の見通しはたっていない。
工事が途中で止まってしまったのです。
しかし、2年連続の工事を前提として、斜面はすでに木がなどは伐採され、地肌はむき出しになっています。
私は、県林務課と電話で話した後、村役場の人とも話しましたが、この箇所について村役場が打つ手はありません。
私はさらに、2つのことをしました。
1つには、13日に再び写真4の現場に行きました。昨年6月30日に法面工事現場の山の上へ行った経験をふまえて、写真4の地点の山の上に行ってみました。
写真5
写真6
写真4のいちばん上の方に芝を貼ったような緑の部分が見えますが、それよりも上の部分(写真4では見えないところ)では上の写真5のような工事が完成していました。これは今冬の大雪でも損傷を受けた様子はありません。この箇所を下り、写真4の急斜面の間際まで進んで撮ったのが写真6です。怖くて、これ以上は覗き込めませんでしたが、この下が写真4の地肌?き出しの急斜面です。
また、極野〜五宝木間の道路に戻ってから、ある地点から見ると、写真6の右にあたる地点の山の上にブルーシートが張られているのが見えました。
写真7
もう1つは、この法面工事に携わった方の意見を聴くことです。
その方は、「もちろん危険です。大きな石が落ちる危険がある」と言われました。
さて、どうすべきか
14日段階で私が確認したところによれば、村役場は、12日に道路に残る土砂等をきれいに片づける作業を行うとともに、担当者が五宝木地区を訪ね、「五宝木の人は通行してもらって結構です」と伝えてこられたとのことです。
私も、晴天状況が続いているならば、落下している石に注意するなどすれば、通行はできると思います。また、13日に極野から五宝木にむかって車を走らせてみて、日出山−鳥甲牧場経由のコースよりも短い距離、短い時間で五宝木に行けることを改めて確認しましたので、なんとか「通行可」としたいと思います。
しかし、法面工事が中断し、地肌が?き出しになっている写真1の地点に大いなる危険があることは否定できません。少なくとも、一定の雨量を超える時は通行止めにしないと安全は確保できないと思います。
いちばんよいのは、なんとかして予算を確保し、工事を完成させることです。
しかし、すぐにそうはならない現状では、県林務課、村役場、工事関係者、専門家等で充分に調査・協議してもらい、当面の安全確保策(降雨時の通行止めにする基準等を定める等)を決めてもらうことが最低限必要だと思います。
居住者少数の周縁集落を大事にする――村政の急務
ひとまずの対策は上に書いたとおりですが、今回の五宝木の道路問題はそうした当面の対策を超えて重要な問題を突き出していると思います。
居住者が少数で、しかも高齢化が進んでいる。そういう村の
周縁に所在する小規模集落を村はどのように守っていくのか
という問題です。
五宝木だけではありません。山田政治さんの口からは「坪野」の名前が何度となく出ました。「復興への歩み」では坪野集落の問題を何度となく取り上げてきました。役場にはそういうつもりはないかもしれませんが、震災後の対応では坪野は「忘れられた被災地」として扱われてきたことが事実の問題として否定できません。上水道の復旧工事が1年以上遅れた事実だけをとっても、そのことは明白です。
そして、今回の五宝木、役場が五宝木を直接に訪れたのは政治さんらの声が役場に届けられてからです。
これは個々の担当者の問題ではないと私は思います。
村政、行政において、五宝木や坪野のような周縁・高齢化・少数世帯の集落に目が向けられていない(あるいは、目の向け方が非常に弱い)という問題だと思うのです。
村民のみなさんも真剣に考えていただきたいと思います。
「栄村は将来どうなるんだ? 人が減り、村はいずれなくな
るんじゃないか」
最近、村の人が集まる場でよく聞く会話です。
事態は周縁地区から始まります。
行政が行政としてなすべきことを充分にせず、さまざまな問題が個々人に委ねられてしまうとき、個々の人はあまりに大きな問題に対応しきれなくなり、個々が村を離れるという形でしか対応できなくなります。人数はまだ少ないですが、そういう事例を私は見ています。
いまが、こうした問題に対処できるギリギリのタイムリミットなのではないでしょうか。
五宝木にたつ開拓記念碑(昭和21年4月入植とある)
築かれてきた暮らしの知恵・技に学ぶ、本当に創造的な村づくりを
6月7日のことだと思いますが、冬の間、森集落の五宝木住宅で暮らす政治さんらとお付き合いがある森の人たちが五宝木を訪れ、政治さんの案内で山菜採りをされたそうです。
五宝木の山菜の豊かさは栄村の中でも屈指のものでしょう。政治さんは90歳を超えられ、もう深い山に入ることはしないようにされていますが、最近まで山菜採りで随分と稼いでこられました。私が聞くところでは、とても良い山菜を採る知恵と技をお持ちだったことに加え、販売先として「いいものを、きちんとした値で買う」という販路の問題も自ら解決されていたようです。
五宝木は冬は栄村の中でもいちばん厳しいものの、その名に「宝」という漢字が入っているように、恵み豊かな土地です。私はこの宝を現代にも活かせると思うのです。
要は、村の中での位置づけ、施策のあり方です。たとえば、「復興支援員」や「地域おこし協力隊」の制度を村が使うのならば、少なくとも1人(1家族が望ましいが)、「五宝木の宝を活かすことに挑戦する」という募集をするというような発想法があって然(しか)るべきだと思います。
キャラブキ(セキさん手作り)
タケノコ、手作りコンニャク、揚げの煮物(セキさんの手作り料理)
被災地の5年後、10年後を総合的に見守るシステムが必要
もう1つ、提起しておきたいことがあります。
五宝木への道路の法面工事が予算カットで中断に追い込まれたのは、震災から5年目を迎え、少なくとも国にはもはや栄村を被災地として見る眼がなくなっていることの現れだと言わねばなりません。
話が飛ぶようですが、中条川で現在行われている災害復旧工事の多くは、「平成25年度台風災害の復旧工事」であって、4年前の地震による山の崩壊・土石流の発生に対する復旧工事ではありません。地元ではそういう区別なく、災害復旧工事として受け止めていますし、県の担当者も予算の確保方法としてそのように命名しているだけという面もあるかもしれませんが、震災からの復旧(復興)を5年、10年の単位で見るという考え方が国にはないことは明瞭です。県もまた、「栄村の震災復旧は基本的に済んだ」という見方であり、いま、県に栄村の震災復旧(復興)問題を総合的に検討する場はないといってよいのではないでしょうか。村では、「震災復興計画」でそういう総合的な検討をする場として「復興推進員会」(仮称)の設置を求め、そういう名称の委員会はたしかに設置されましたが、「復興計画」が求めた機能を果たしているとは言い難い現状です。
震災のもたらしたダメージは4年、5年を経る中でじわーっときいてくるもののようです(ボクシングのボディーブローのような感じ)。五宝木の道路問題はそういうことも突き出していると思います。
今号は五宝木の道路問題を知って、「1日、11日、21日の定期発行」のスタイルを崩して16日付で発行しました。内容は五宝木の道路問題だけで、字数も多く、ちょっと読みづらいという方もおられるかもしれません。時にはこういう号もあるものとご了解ください。
最後に、15日に野々海で撮影した写真をご紹介します。
池面の雪は消えました。
ミズバショウの開花が進んでいる東窓の湿地です。
イワナシの花です。その左下に「小さなナシ」のような実も見えます。
(前号で「イワナシ」として紹介したものは正しくは「アカモノ」(別名イワハゼ)でした。お詫びし、訂正します)
<次号の発行予定について>
16日付号を発行しましたので、21日の発行はありません。次号を7月1日とするか、それよりも早めるかは未定です。